表紙カバーに「協力:谷川俊太郎、穂村弘」とクレジットがある。「本文中の島崎藤村の詩および石川啄木の短歌の多くは、谷川俊太郎、穂村弘両氏によって本作品のために書き下ろされたものです。」(660ページ 注及び謝辞)ということのようである。谷川俊太郎は、いうまでもなく、現在の日本で最大の詩人。いや、私は、むしろこの人を、というひとはいないことはないだろうが、だれかが谷川俊太郎と名前を上げてしまえば、いや、そうではなくて、とあえて異論を差し挟むことはできない、そういう詩人である。穂村弘は、高名な歌人である。ちょっとウィキペディアを見ると、この小説のための贋作を作ったことが、彼の歌人としてのキャリアのなかで相応の出来事であったようではある。
谷川俊太郎は、この作中で、島崎藤村になりすまし、穂村弘は石川啄木になりすまし、贋作を提供したわけだが、高橋源一郎自体が、この作品を、藤村やら啄木やらになりすまして書いている。偽物として、贋作をものしている。この小説「日本文学盛衰史」自体が、まるごと贋作であるような小説である。
こういう荒技は、いまの日本では、まさに、高橋源一郎しかできないものに違いない。初出は、1997~2000年の群像か。単行本としては、2001年刊行とのこと。そうか、もう20年も前のできごとであった。
どうも、私は、性的に露骨な描写が不得意で、エロとかグロのたぐいは避けて通ってきており、しばらく、高橋源一郎は読む気にならなかった時期が続いていた。タイトルからして、評論と思い込んでいたせいもあるのかもしれないが、手に取る機会がなかった。
なんだろう。震災後に「恋する原発」で、再会した、という感じだったかな。「銀河鉄道の彼方に」で、なのだろうか?
再会して、改めて、高橋源一郎こそ、アクチュアルな日本の現在を代表する小説家と思い定めた、というか。
冒頭の「死んだ男」は、鮎川信夫の詩のタイトルである。戦争で死んだ友、森川義信のことをうたった詩である。ただし、これはタイトルを使っただけで、登場人物は、二葉亭四迷。ここでは二葉亭四迷が死ぬ男である。
小説「死んだ男」はこう始まる。
「ペテルスブルグ、ワシ―リースキ―島のアレキサンダー病院に入院していた二葉亭四迷こと長谷川辰之助が、医者に見放される形で退院したのは明治四十二年四月三日であった。」(11ページ)
ペテルスブルク、ワシ―リースキ―島とくると、ドストエフスキーの「罪と罰」に出てきたような気がするがどうだったか。なにか先行する文学史と重なってくるような、というか、わくわくする出だしである。
とはいいながら、最初は、淡々とした評伝のようであり、小説ではないかのように見える。ところが、途中からいつのまにか奇妙なセリフが出てくることになる。たとえば、四迷の葬儀の場面。森鴎外と夏目漱石の会話。
「鴎外は葬儀に参集した作家たちの群れから少し離れた場所にひっそりと佇んでいた。鴎外は隣にだれか近づく気配を感じた。鴎外はそっと振り向いた。
「森先生」
「夏目さんですか」
「長谷川君はたいへん気の毒なことでありました」
「ほんとうにそうでしたね」
それからふたりは黙って島村抱月の弔辞に聴き入っていた。
「新しい作品を朝日に連載されると伺いましたが」小さい声で鴎外はいった。
「一回目を一昨日書いたばかりです」
「題は?」
「『それから』といいます」
抱月が終わると、最後は小林愛雄の番であった。
「森先生」
「なんですか」
「『たまごっち』を手に入れることはできませんか。長女と次女にせがまれて、どうしようもないのです」
「『たまごっち』ですか。娘のマリが持っていたと思います。確か新『たまごっち』の方も持っていたようだ。どこで手に入れたか訊ねてみましょう」
「ありがたい」」(20ページ)
とまあ、こんな具合である。マリというのは、鴎外の長女、のちの作家森茉莉のこと。
森鴎外と夏目漱石の、当時事実としてあり得たような会話の中に、突然「たまごっち」が登場する。明治末期のお話に、平成の時代のモノや出来事が闖入してくる。
(そういえば、最近の若者は「たまごっち」と言っても、すでに知らないか?平成のある時期に、相当に流行したおもちゃである。)
この作品は、1個の長編というよりは、連作短編というべきだろう。タイトルを見ていくと、「ローマ字日記」は石川啄木の日記で、主人公も啄木。
「若い詩人たちの肖像」は、詩人で小説家の伊藤整の「若い詩人の肖像」から取って、登場人物は、島崎藤村や、それ以前の明治の詩人たち。
「HANA-BIみたいな散歩」は、タイトルは、ビートたけしの映画「HANA-BI」を使って、「武蔵野」を書いた国木田独歩を書いている。
「蒲団‘98・女子大生の生本番」は、田山花袋の小説「蒲団」に、アダルト・ビデオ風のサブタイトルをくっつけて、アダルト・ビデオ風に翻案したもの。
「されどわれらが日々」は、辻邦夫の小説のタイトルで、島崎藤村を描く。
「ラップで暮らした我らが祖先」は、大江健三郎の小説「狩猟で暮らした我らが祖先」のタイトルのもじりで、「明治中期最大のベストセラー」を書いた小杉天外ら、すでに忘れ去られた当時の人気小説の紹介である。
と、まあ、収録された小説のタイトルすべてをネットで検索すれば、すべてどんな小説やら作品やらを借用したのか同定できるだろうが、そんなところで止めておく。
タイトルも本文も、明治大正の、日本文学の黎明期と、爛熟期ともいうべき平成の時代を自由にワープしつづける。非常に不真面目でありながら、相当に真面目に日本文学史を渉猟、探究した、高橋源一郎ならではの傑作というべきだろう。これ一冊読めば、日本文学史に精通できる優れものである。
というよりも、逆か。日本文学史に一定程度精通していなければ楽しめない、高級な純文学というべきなのかもしれない。不真面目の仮面をかぶった真面目である。
ということで、今回も楽しませていただきました。
で、最近出た続編、日本文学盛衰史戦後文学篇「今夜はひとりぼっちかい?」も買ってあるので、楽しみにしています。
あ、そうそう、落合直文も、一回だけ名前が出てきた。と、思ったのだが、どのページだったのか、いま、どうもうまく探し出せない。勘ちがいかな?
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