私は日本人であるより先に気仙沼人である
と言ってみる
ああ
アイデンティティの拠り所として
まずは気仙沼人である
と言ってみたが
それは怪しいもので
根なし草の地球人かもしれない
地球人などといっても種として人類であるということで実体のない空理空論のたぐいだ
地球語などというものは存在しないのだから
私の中で気仙沼弁でできている層と
共通語でできている層と
あとから英語やらフランス語やら取ってつけたように学んだ層は無視して構わないとして
どちらが基層をなすか
どちらが私の本性か
私が子どもの頃も今も
気仙沼あたりの若い親たちは
赤子に気仙沼弁で呼び掛けることはしない
少なくとも私はとんと目にしたことはない
昔の祖母や近所の年寄りたちは別である
ばばば何としたべめんこいごとめんこいごと
若い親たちもお互いの会話では気仙沼弁になっているかもしれない
いや気仙沼弁から共通語の間の広がりのなかでごちゃ混ぜになったキマイラのようなことばを使っている
ごく幼いころの家庭の中でのことば
学校の授業で学ぶことば
むしろ私たちの基底には共通語としての日本語がある 少なくとも戦後生まれの私たちの世代ではそうだ
ひょっとして日本どこでも明治の文明開化から義務教育の定着以降はずっとそうなのではないか
倒錯めいた話だが基底には共通語があり方言はあとから取ってつけたコミュニケーションのツールとして機能しているのではないか
気仙沼弁は
家庭の外で幼稚園や小学校に通うようになって以降後から出会ったことばだったのではないか
気仙沼らしい語彙については相当にそうだし
イントネーションは気仙沼地方においては比較的共通語風だったようにも思うが
気仙沼弁は地域において交わるために親しみをこめて半ばおどけたようにあえて演じることばであり続けているのではないか
一方で
気仙沼弁がそういうツールとしてしぶとく生き延びていることも確かなこと
そこには根なし草ではないなにか確実なものが存在することは確かであるが
私が気仙沼人であるというのは
ごく自然に当然にそうであるのではなく
ひとつのフィクションとして演じられている役柄なのではないか
もちろん
私が日本人であるということもそれほど自然で自明であることでもない
私は大人になる過程で(もちろん大人になりきれたかどうかは別のこと)西洋合理主義にどっぷりとつかって(哲学やら精神分析の本を読み漁って)子どものころの家庭の問題をようやく乗り越えることができた
両親の間の問題と両親との関係の問題をなんとか相対化して生き延びることができた
私の半ばは日本人ではない
のかもしれない
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