副題は「純粋な資本主義を考える」。
佐藤優は、元外務省の官僚。元国際情報局主任分析官だという。
神学部出のクリスチャンであるとは知っていたが、実はマルクス主義を学ぼうとしていたのだという。
「私は、マルクス主義の科学的無神論を学ぼうと考えて、一九七九年四月に同社大学神学部に入学した。…神学部に入って水が合わなければ、すぐに退学して、首都圏の大学の経済学部か、文学部に入り直してマルクス主義を勉強しようと思っていた。」(185ページ おわりに)
言ってみれば、不純な動機で神学部に入ったわけだが、ミイラ取りがミイラになったようである。
「予想に反して、神学部は、私の知的刺激を満たすのに最良の環境だった。神学の勉強を半年ほどしたところで、マルクスが批判している神は、まさに人間が作り出した偶像で、カール・バルトやディートリヒ・ボンヘッファーなどの優れたプロテスタント神学者は、マルクス主義者よりもずっとラジカル(根源的)な宗教批判を展開していることを知った。」(185ページ)
この本は、プロテスタント神学者のラジカルな宗教批判についての本ではないし、私自身が詳しいわけでもないので、そのラジカルな中身については、置いておく、ということになる。
この本は、資本論について学ぶものだが、その際、日本の経済学者・宇野弘蔵の考え方を参照しつつということだという。
「題材と相手扱っているのは、宇野弘蔵編『経済学』(上下二冊、角川全書、一九五六年だ。…(中略)…宇野弘蔵は、マルクスの『資本論』研究の第一人者だ。しかし、『資本論』から革命の指針を見出そうとするイデオロギー過剰なマルクス主義経済学者ではなかった。(3ページ はじめに)
ということで、マルクス主義者ではない佐藤優が、宇野弘蔵の経済学を解説することで学ぶマルクスの経済学についての本ということで、たいへんためになる本である。
マルクスの経済学は、マルクス主義者でないものには無意味だとかいうことは全然なくて、実際に役に立つものである。マルクスによる人間の社会の捉え方は、的を射ているところ大である。現代の人々も学ぶべきものである、とわたしは考える。共産主義者だとか、社会主義者だとか、保守主義者だとか、キリスト者とか、仏教徒だとかに関わりなく、学んで得るところ大きいものである。
この本を入門書として、経済学を学ぶ、資本論を学ぶ、などというのも有意義なことに違いないと思う。
ちなみに、私は、大学生までで、「共産党宣言」と「経済学批判草稿」かなにかは読んで、「資本論」は、読むつもりもなかったのだが、第一部のみ、事の成り行きで読んでしまっただけで、あまり偉そうなことは言えない。「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」はぜひ、読んでみたくなって、同じ本に収められていた資本論第一部もついでに読んでしまったということ。
ただ、柄谷行人やら、中沢新一やら、なにやらかにやらで、例のリンネル二十反が一着の上着と等価だとか、モノ‐カネ‐モノの交換とか、それなりに読んではいる。いわゆる近代経済学ばかり読んでも、世のなかのことは一つもわからない、と私は思う。「若者よ、資本論を読もう」というのは内田樹師匠の著書だったか。
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