大岡信とは、どういう存在だったか。
私が十代のころ、当時現役の詩人の代表は、谷川俊太郎と、もうひとり大岡信と目されていた、と言って間違いでないはずだ。どちらも1931年(昭和6年)生まれということは、四十歳代ということになる。いまだと、四十歳代と言っても、若手の部類にしか見られないかもしれないが、当時は、十分なベテランであったと言える。
どちらかと言えば、大衆にも受け入れられる感覚派が谷川で、インテリで理論派が大岡というイメージだった。素人受けするのが谷川で、より玄人受けするのが大岡だ、みたいな。
今になってみると、谷川は論理で書く詩人であり、大岡は感覚派だった、みたいなことになる。感覚という言葉も多義的で、どちらも感覚派と言っていいのかもしれないが、谷川は、直感だとか、直観だとかに通じる感覚派であり、大岡は、抒情だとか感情だとかに通じる感覚派と言えばいいか。
谷川は時代を超えて、一挙に未来にいるみたいなところがあるが、大岡は、深く時代を捉え、古代からの歴史を踏まえたその先端に現代がある、現在があるという認識で詩を書いた。谷川は、どこの国の人か分からない無国籍なところ、極端に言えば宇宙人のようなところがあるが、大岡は、フランスやヨーロッパのみでなく全世界に通じたうえで日本人であるというような詩を書く。
いずれにしろ、日本の昭和から平成にかけて、谷川、大岡とふたり並び称される詩人であった。ある意味では、これは当たり前すぎることであった。大鵬と柏戸、巨人と阪神、松任谷由美と中島みゆきのようなものだった。
なんというか、玄人は、谷川、大岡のふたり、とは言っていけないみたいな雰囲気はあったと思う。いわく、吉岡実であり、吉増剛造であり、みたいな。彼らが優れた詩人であることは論を待たないが、昭和30年代から今に至るまで、ということは、考えてみるに昭和31年生まれの私の60年の人生に全く重なるように、谷川、大岡の君臨する時代は続いてきたのだということになる。
この時代、日本の他のすべての詩人は、先行するもの、同世代のもの、後に続くもの、すべて、この二人との位置関係で評価されてきた、と言ってしまっていい。
そんな大岡信が亡くなった。ああ、という思いはあったわけで、今回の追悼特集は読み通した。現代詩手帳は、最近は、ずっと、ぱらぱらとめくってみる程度だったが、久しぶりに、読んでみたいと思った。大岡信が亡くなって、その追悼である。
実は、つい先日、岩手県一関市東山町に谷川俊太郎を聴きに行って、感動してきたばかりである。息子のピアニスト、賢作さんとご一緒であった。大岡信が亡くなった、ということはひとことも触れなかった。一般の聴き手にとっては、直接かかわりのない事件であったかもしれない。しかし、私は、谷川の詩や歌を聴きながらずっと一方で大岡のことが頭から離れなかった。(なんと、谷川は自ら鉄腕アトムを歌った!)
さて、追悼特集から少々引用する。
新川和江さんが、「詩人の水茎」と題して書いている。
「…大岡信さんを憶う時、きまって次の一行が、微風のように私の頬を吹き過ぎる。〈丘のうなじがまるで光ったようではないか〉。かね子夫人(劇作家・深瀬サキさん)との青春の愛を歌った詩集『春 少女に』の書き出しの一行である。」(48ページ)
大岡信の感覚が明らかに見て取れる一行である、と思う。
そして、谷川を含むエピソード。大岡の詩、批評に対するスタンスが読みとれるところが続く。(あわせて、谷川の人物像も。)
「大岡さんとはじめて同席させて頂いたのは、一九六七年、集英社が主催したジュニア詩人大賞の選考の時で、大岡さん、谷川俊太郎さん、和服の私と並んだ写真が残っている。審査が終わると谷川さんは愛車を駆って帰られたが、大岡さんと私は最寄りの駅まで歩いて行った。私は集英社から、古今東西の詩の中からアンソロジーを、テーマ別に五冊作って欲しいと注文を受けていた。でも、詩を志す者がそのような仕事を引き受けてよいものかどうか迷う気持ちがあり、お訊きしてみた。
『いやけっして二流の仕事ではなく、外国などでも一流の詩人たちが、その種の仕事を積極的にしています。ぼくもいずれ手がけるつもり』と大岡さんは即座に答えて下さった。それで私は、その仕事を続けることにした。…(中略)…
このシリーズは全体で百万部も売れた上に、何よりも有難かったことは、読み漁り、書き写したことで、詩の何たるかを私が教えられた事だった。」(48ページ)
高橋睦郎氏が面白いことを書いている。
「(吉岡実の)一周忌に集まりを持つことになり、発起人代表をしてもらおうと世話人が大岡さんを訪ねた。大岡さんの反応はにべもないもので、なぜ吉岡のようなマイナー・ポエットのためにわざわざそんな大げさなことをするのか、俺は出席しないよという答え。しかたなく世話人は催し名の揮毫だけを貰って、帰ってきた。…(中略)…しかし、吉岡のようなマイナー・ポエットという大岡さんの一言は棘のように残った。」(64ページ)
大岡信ともあろう人が、偏見、差別の言葉を語ったのだろうか。しかも、あの吉岡実について。
「大岡さんの詩人観においては、いかに魅力的な詩を書こうと、詩しか書けない詩人はマイナー・ポエット、詩が書け、試論が書け、アンソロジーが編めてこそ、はじめてメジャー・ポエットの名に価する……そういうことなのだとの結論に達した。」(65ページ
大岡信の詩への姿勢、考え方からすれば、まさしくそういうことになるのだろう。
「それから四半世紀、この結論はおおどころでは変わらないものの、大岡さんが八十六年の生涯を閉じたいま、その真相は私の中で微妙に変容して見える。
大岡さんの鋭敏な眼は詩作品においては吉岡さんが自分を超えていることを感得していた。しかし、試論やアンソロジーの上では自分のほうが凌駕しているという自負があった。じじつ、詩論『抒情の批判』や、とりわけ『紀貫之』『詩人・菅原道真』などは吉岡さんに限らず、同時代のどんな詩人にも書けないものだ。また長年月「朝日新聞」朝刊第一面を飾った『折々のうた』は多ジャンルに亘り一般読者に開かれたアンソロジーとして世界稀有だろう。」(65ページ)
大岡は、《詩作品においては吉岡さんが自分を超えていることを感得していた》、と。
深く感じ入る、深く考えさせられる言葉である。
他にも、高名な詩人たちが、大岡信の偉業について書いているが、上記、新川、高橋両氏の言葉で、要点は尽きているだろう。
代表詩選として挙げられている作品は、詩集『記憶と現在』から「春のために」、『転調するラブソング』から「さわる」、また「地名論」、「わたしは月にはいかないだろう」、『水府 みえないまち』から「サキの沼津」など、どれも優れた詩である。
「地名論」は、こう歌いだされる。
「水道管はうたえよ
お茶の水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
パルパライソ
トンプクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延び続けよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
…(以下略)…」(38ページ)
《水道管はうたえよ》、である。
この「水道管」という無機的で凡俗なことばと、「うたう」という通俗に落ちかねない抒情にまみれたことばの接続。圧倒的な言葉の知識に裏打ちされた、巧妙精緻にして、傍若無人に投げ打った乱暴な言葉づかい。
この一行を詩にしてしまうというのは、大岡信ならではの力業である。少しだけ『技巧が勝った』と言えなくもない、かもしれない。
この特集からは離れるが、私の好きな詩を一編挙げておきたい。いま、手元にある「詩のレッスン」(小学館1996年)に取り上げられた「はる なつ あき ふゆ」。
「はるのうみ
あぶらめ めばる
のり わかめ みる
いひだこ さはら さくらだひ
はまぐり あさり さくらがひ
やどかり しほまねき
ひじき もずく いそぎんちゃく
なつのうみ
よづり いかつり
やくわうちゆう くらげ
ます あなご ちぬ
とびうを かははぎ べら をこぜ
いしだひ はまち おほだこ
いさき かんぱち ままかり
てんぐさ ふなむし ふのり
あきのうみ
あきあじ あきさば あきがつを
いわし さんま すずき
ぼら はぜ
しいら たちうを さつぱ
ふゆのうみ
あんかう なまこ
ふぐ
ちどり
かも
しんねんのうみ
おほはしのはつわたり
はつひので
なぎ
こども
おとな
うみかぜ
かもめ」(詩のレッスン 小学館82ページ)
この本でこの詩の選者である詩人・三木卓はこう書いている。
「掲載の詩は、日本の自然と言葉を愛するこの詩人らしさがよく出ている愛すべき一編。名詞だけで日本の四季を表現するというみごとな芸をみせてくれている。海に洗われるこの島国に住み、その幸を知るものは読んでいて、いい音楽を聞いているような気がするはずだ。」(81ページ)
名詞をとにかく大量に並べて一個の豊饒な世界を表現するというと、小説家の開高健を思い出す。大岡らとほぼ同じ世代の人だが、ここでは、ただ連想が働いたというだけのこと。
ところで、私は、この詩へのオマージュとして、「青果市場」という詩を書いた。地元の三陸新報のある年の新年特集に掲載してもらった。第3詩集「寓話集」に載せている。
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/f9113ebe1186d2206a2e06e5295f3a22
私も書いています。
読みに来て頂くと嬉しいです(^-^)
みんなのブログからきました。