鹿島茂氏は、フランス文学者。本は、これまで、けっこう読ませていただいている。いちばん最近は、役人の生理学という文庫本で、これは、著書というよりバルザックの翻訳か。
本棚を見てきたら、他に「『パサージュ論』熟読玩味」(青土社)、「文学的パリガイド」(NHK出版)、「吉本隆明1968」(平凡社新書)が並んでいた。もっと読んでいる気がするが、こんなものかな。
パサージュ論。
ヴァルター・ベンヤミン。
パサージュ論の読書は、私にとっては、大きな事件とでもいうような体験の一つだった。
この「熟読玩味」と、「パサージュ論」自体と、どちらを先に読んだのか、定かではないが、こういう優れた本は、本体とあわせて、それに関する評論を読むというのが大切となる。面白く興味深く勉強させていただいたように思う。
で、さて、ドーダの人だが、ドーダというのは、鹿島氏オリジナルの言い方ではないらしく、漫画家の東海林さだおが言いだしたものらしい。
「ドーダとは、「ドーダ、俺はすごいだろう」という、自己愛を核としてなされるすべての表現行為のことである。」
と、帯にある。
なるほど。
鹿島氏によれば、あの「パンセ」を書いたパスカルも、このドーダの人の部類であるらしい。
「虚栄というものは人間の心の中に非常に深く錨を降ろしている。だから、兵士も、従卒も、料理人も、港湾労働者も、それぞれに自慢ばかりして、讃嘆者を欲しがるのだ。さらに哲学者たちも、称賛してくれる人が欲しい。また、そうした批判を書いている当人も、批判が的確だと褒められたいがために書くのだ。また、その批判を読んだ者も、それを読んだという誉れが欲しいのである。そして、これを書いているわたしですら、おそらくは、そうした願望を持っているだろう、また、これを読む人だって……。(断章150)」(はじめに 2ページ)
鹿島氏ご本人の翻訳の「パンセ抄」(飛鳥新社)である。
こういうことは、まさしく、私自身もぴったり当てはまっている、と言ってしまって過言でない、というか。まあ、私も、群小のドーダの人のうちの眼にもとまらないような一粒であるということだ。
で、何故、小林秀雄なのか、というと、
「第一は小林秀雄が「ドーダのデパート」だからです。小林秀雄の著作をドーダの観点から読んでいくと、そこにありとあらゆるタイプのドーダを発見することができます。」(3ページ)
さらに、デパートであるということだけでなく、日本近代を代表してしまうような、一個の典型を見たということのようである。
「小林は、ある時期までの日本人に典型的にあらわれていたドーダを典型的に示しているのではないかと思えてきたからです。」(5ページ)
なるほど、昭和を代表するドーダの人である、ということだろう。
で、小林秀雄といえば、ランボーである。
私は、小林秀雄を経由せずにランボーを学んだ、珍しい種類の人間である。
奥本大三郎先生は、私の数少ない直接教えをいただいた恩師であるが、まだ横浜国立大
学の講師であった時代に、埼玉大学に非常勤講師でいらしていて、そこで、ランボーの初期詩編を原典購読で学んだ。
教養学部のフランス文学の研究室で、せいぜいが6~7人以内だったと思うが、奥本先生を囲んで一語づつランボーを読み進めた。今になって思えば、贅沢な、貴重な時間であった。脇道にそれることにはなるが、ボードレールは、白百合女子大だったかの須長先生から、学生2人きりで、2年間にわたって学んだ。なんとも贅沢なことだし、最近の大学の効率優先みたいな風潮では許されないような事態ではあるだろう。
こういう贅沢な授業は、確実に私のためにはなったわけだが、では、それが、国立大学として、お国のために役立ったのかとなると、はなはだ疑問ではある。(などというと、だから、地方国立大学の文科系は削減すべきだなどという議論に短絡することになる。実のところ、このいい方は謙遜であり、レトリックである。こういういわば余分な余白が、総体としての日本の生き残りに確実に必要なことだとは言えるはずだ。実は、お国の役に立っているのだ。このあたりの消息は、内田樹氏らの論を参照されたい。)
それで、なんだっけ?
そうそう、奥本先生にランボーを学んだ。3年生だから21歳のころである。それ以前にはランボーを読んだことはなかった。どこかの本で引用してある詩句は読んだことがあったが、詩集なりをきちんとまとまった形で読んだことはなかった。もちろん、小林訳のランボー詩集も読んでいない。
小林秀雄は、高校の教科書で、「無常ということ」と「当麻」だったか、短いエッセイを読んだきりであった。
小林秀雄に心酔するという経過を経ないで、ランボーを読み始めた、という、今にして思えば、珍しい種類の人間である。
小林秀雄のドーダの毒には、直接にはあてられていない、ということになる。
しかし、まあ、直接には、ということであって、というか、そうか、その後に、一応、小林訳ランボーは読んだし、「モーツァルト」とか何冊かは読んで、やはり、毒気には充分にあてられたわけだな。
では、小林秀雄の文章は、どういうものかといえば、
「利口さうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。誤解にしろ正解にしろ同じやうに俺を苛立てる。同じやうに無意味だからだ。例へば俺の母親の理解に一足だって近よることは出来ない。母親は俺の言動の全くの不可解にもかゝはらず、俺はといふ男はあゝいふ奴だといふ眼を一瞬も失つた事はない」(「Xへの手紙」)」(17ページ)
ま、そんな文章である。
鹿島氏は、この文章を引いて、小林の「ドーダ」ぶりを解説なさる。フランス哲学風の明晰判明な知でもって、明確に分り易く解説していただける。
小林の文章の分かり難さを、分かりやすく解説していただけるわけで、たいへんに有難いことである。
小林秀雄の文章を一種けなしているというふうにも言えるわけだが、実は偏愛しているというようなことでもあって、だからこそ、この本自体も、読者に読ませてしまう、というような本になっているわけである。
この本をきっかけにして、「モーツァルト」だとか、「無常といふこと」とか、小林秀雄の文章に触れて、その圧倒的な魅力に触れてみるということになれば、たいへんに有意義なことであるに違いない。
しかしやはり、鹿島氏、内田氏、奥本氏と、フランス文学の方々の著書は、寄るに親しきというか、面白く、興味深く、心地良く読んでしまえる。肌に合うというのか。
ふう、ようやく書いた。
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