全7巻中の第6巻。
原著で言うと第3巻の前半ということになる。
第1章の「役立つことと正しいことについて」の冒頭は以下のように始まる。
「だれだって、ついくだらないことを口にしてしまうことはある。困るのは、それを本気でいってしまうことだ。
まったく、あいつときたらてんやわんやの大騒ぎをしながら、とんでもない無駄話を聞かせる気なんだ。(テレンシウス『自虐者』六二一)
でも、これはわたしには無縁だ。わたしの場合、くだらないことは、くだらないなりに、うっかり口から漏れる。だからけっこう具合がいい。」(11ページ)
ふむ、モンテーニュは、くだらない話をする場合には、ちゃんとくだらないと分かるように語るということか。羊頭狗肉のように、格調高く深淵なお話を聞かせるふりをしながら、無駄話をきかせるようなまねはしない、無駄話は無駄話らしく語ると。なるほど。
まあ、むしろ、率直なことを語るという意思表示と読むべきか。美辞麗句を連ねた美文をものしようというのではなく、自分自身を隠すことなく、あからさまに告白するようなところも含む率直な文章を書いているのだということ。等身大の人間を描こうとする。この点に、このエセーの新しさがあるとも言われるようだ。
ルソーの「告白」はもちろんこの後だし、自然主義の小説群も、このエセーの影響下で生み出された、とも言えるのかもしれない。
もちろん、この後で、デカルトが「方法序説」や「省察」を書き、近代哲学の系譜もこの後に連なっていくことになる。
ところで、この書物に聖書からの引用はほぼない。ほとんどギリシャ・ローマの古典のそれも孫引きで占められているようだ。
ヨーロッパの源流は、ヘレニズム(ギリシャ、ローマ)とユダヤ教(その後裔としてのキリスト教)にあるというが、近代の科学は、どちらかというと、ユダヤ・キリスト教にどっぷりとつかって、というよりは、むしろそこから距離を置き、ギリシャ以来の合理主義に沿っていくことで生み出され育ったものと言える。神秘よりも理性に重きを置いた。
モンテーニュこそが、脱キリスト教、脱教会の張本人にして、近代科学の生みの親、と言っても過言ではないのかもしれない。
ああ、でも、この前に「痴愚神礼賛」のエラスムスがいて、イタリア・ルネサンスの巨匠たちもいるわけだが。
もちろん、モンテーニュより後のデカルトは、一つの出発点とは見なされるわけだが。
第4章「気持ちを転じることについて」にはこうある。
「恋の情熱があまりに強すぎるときには、これを散らしなさい」というけれど。これは正しい。このわたしも、しばしばそのようにして効果を上げてきた。」(106ページ)
散らすというのは、まったく別の分野のことで気分を紛らわすということではないようである。これは孫引きという形になるが、
「股間の一物が猛烈な欲望にあえいでいるときは(ペルシウス『風刺詩集』六の七二)、たまった体液を、どんな肉体にでもいいから、ぶちまけろ(ルクレティウス『事物の本性について』四の一〇六五)(106ページ)
なんとまあ、率直なもの言いである。
恋愛の対象ではない、お手軽なところでやってしまえ、みたいな話である。
第5章「ウェルギリウスの詩句について」は、120ページほどにも及ぶ長い章であるが、これは、ほとんどすべて、性とか愛欲とかの話。結婚とか、純愛の話もないわけではないが。
「そういえば、われわれの時代のある女王さまが、『このような求愛を拒むのは、逆に自分の弱さを証明することになるし、尻軽さを白状することになる。そもそも、一度も誘惑されたことのない女性には、自分の貞操を語る資格はない』となんとも洒落たもの言いをなさったことがある。」(156ページ)
なんというか、当時の宮廷生活というのは、ずいぶん、奔放というか、自由というか、モンテーニュ自身も、隠遁する前の若いころはどうだったとか、ああしたとかこうしたとか、元気だったみたいなことは書いていて、ずいぶんとモテたみたいなことも言っている。
騎士道の純愛なんていうものも、ひとつの神話、ひとつの理想形、いや、むしろ、肉欲を楽しむための一種のネタでしかないのではないか、などとも思いたくなる。
やれやれ。
だが、次のようなところを読むと、ああ、なるほどな、とは思わされる。
「おまえの喩えはてんこもりだな。ほらこれなんかガスコーニュ方言丸出しじゃないか。このいい方は危ないぞ。…(中略)…これはいくらなんでもナンセンスだ。おまえはよく冗談めかして書くけどな、わざとふざけていってることも、本気だと思われるぞ。…(中略)…そのとおり、でも、わたしが訂正するのは、不注意なまちがいであって、習慣となったまちがいは直したりしない。それに、わたしはどこでもこんなふうに話しているじゃないか。自分の生の姿を描いているじゃないか。それで十分なのだ。わたしはね、望みどおりのことをしたんだよ。なにしろ、みんながわが書物のなかにわたしの姿を認め、わたしのなかにわが書物の面影を認めるのだからね。」(180ページ)
こんなふうな、自分自身をあからさまにさらけ出した率直なもの言いというのも画期的なものだったに違いない。当時としても、ずいぶんと版を重ねたようで、今風に言ってベストセラーであったと言っていいのだろう。
ガスコーニュ方言丸出し、というのもまた、好ましいところである。
ということで、さて、第7巻の発行を待つことになる。
あとがきを読むと、2015年中には発刊という意気込みだったようである。首を長くして待つ、ということになるが、それほど長くとはならないだろう、と期待しているところである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます