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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

小泉義之 ドゥールーズと狂気 河出ブックス

2014-09-18 00:16:38 | エッセイ

 またまた、ドゥールーズである。

 こないだは、國分功一郎の「ドゥールーズの哲学原理」(岩波現代全書)など読んで、分からない分からないと書いたばかりだったのに、性懲りもない。相変わらず分からない。

 この本も、ひと月もかけて読み終えたが、分かった感じがしない。

 小泉義之氏は、1954年生まれ、立命館大学教授。2歳上か。60歳。

 本の帯に、あの「動きすぎてはいけない」(河出書房新社)の千葉雅也が「「やりたいようにやる」ことをこれほど激烈に考える本がほかにあるだろうか?」と推薦のコメントを寄せている。あ、千葉は、立命館大学の助教授か。そうか。

 というか、「動きすぎてはいけない」も、ドゥールーズについての本だった。重ねて性懲りもないという事態だった。

 いい加減、本棚にある「アンチ・オイディプス」、もういちど手をつけてみようか?ドゥールーズの周りをぐるぐるとらちあかず廻り廻っていることはやめて、ドゥールーズ(&ガタリ)自体に飛び込むべきなのではないか?

 と、まあ、それはさておき。

 この本は、「かつて、「狂気」によって思想と行動が激しく揺さぶられ駆り立てられた時代があった。」と書きだされる。「「狂気」は時代と人間に対して、たいていは静謐に、ときには激烈に、最も強く異議を申し立てる力であるわけだが、「狂気」は新しい時代を切り開くかもしれないし、「狂気」は新しい人間を生み出すかもしれないと、そう信じられた時代があった。」(7ページ)

 そういう時代の立役者としてドゥールーズがいた。小泉はそんな表現はしていないが、雑に言ってしまえば、そういうことなのだろう。

 しかし、時代は変わった。ドゥールーズは忘れ去られていた。

 そして今、時代が一巡りして、改めてドゥールーズの語る「高次の正気と高次の狂気」が求められる時代となっている。雑にいえば、恐らくそういうことが言われている。

 「高次の正気と高次の狂気」

 これは、いったい何だろうか?

 高次の、というのは、普通の正気や狂気ではない、普通ということを超えた、スーパーな正気や狂気。

 いったい何のことだろうか?

 この本を読む限りでは、明確な説明は与えられていないようだ。

 ドゥールーズ自体が、明確な説明をしていない、ということらしい。

 だから、よくわからない。

 「私は、ドゥールーズ(+ガタリ)には限界があると思っている。肝心のところで、頓挫しているとも思ってもいる。と同時に、そこを説明するのは、思われている以上に難しいと思っている。正直に言うなら、その頓挫の経緯と要因について、私には、いまだわからないところが残っている。加えて、そもそも、ドゥールーズ(+ガタリ)のテクストは難しい。読み解けないところが沢山ある。これも正直に言うなら、テクストの二・三割ほどは私にはわけがわからない。」(8~9ページ)

 小泉教授も「わからない」と言っている。私がわからないのは当然のことだ。もちろん、小泉氏は、7~8割はわかっているという前提でのこと。(私は、1割わかるかどうか。)

 しかし、わからないから学ぶ必要がないということではなく、いまだからこそ、学ぶことがある、ということらしい。

 「ドゥールーズ…は、別の自然、その別の自然から誕生する新たな人間を探ろうとしています。そして、その議論は、私の見るところ、通例の狂気とは区別されるべき高次の狂気とでも呼ぶべきものの探求に繋がっていきます。」(13ページ)

 ふむ。

 少し先に、

 「「二義的な自然」は、いわゆる「第二の自然」のことですから、日常的に語られるところの自然のことです。また、「第二の自然」は習慣も意味する言葉ですから、社会化された自然、自然化された社会のことです。」(14ページ)

 13ページの引用の「別の自然」と、14ページのほうの「二義的な自然」とは、実は別物で、「別の自然」のほうが「第一義的な自然、本源的な自然」とでも言うべきもののことである。

 人間が、普通に経験でき、普通に見聞きできるのは、「二義的な自然」なのだという。それはいわゆる自然であり、同時に社会でもある。

 一般的には、自然と、それに対立する社会というふうに区別されるのだが、そうではなくて、自然と社会は融合しているひとつのものだと。そしてこの自然は、「二義的な自然」なのだ。

 第一の自然、本源的な自然は、それとは全く別物で、普通には人間が経験することができない。見ることも聞くこともできないのだという。

 「人間の経験界である第二の自然とは区別される第一の自然、本源的な自然は、底無しの分子的なカオスであると言われています。経験を超えたところで、生物の創造や保存や固体化などお構いなしに荒れ狂っている自然があると言われています。しかし、存在するとは言われていても、それは経験に与えられることが無いと認められています。」

 第二の自然は、見慣れた身の回りの自然。目で見て、耳に聴いて、鼻で嗅いで、口で味わって、体が触れることのできる自然。体に触れて、そういうものだと思っている自然。それと、ひとがその中で生きている社会も含む。人間がふつうに経験できる世界。目に見えている植物や動物、そして他の人間に囲まれて生きている世界。それが第二の自然なのだという。

 それは、歴史を少し遡れば、哲学者カントのいう想像界か象徴界か、ということになる。

 第一の自然とは、カント的に言えば現実界ということになる。

 カントは、人間は、現実界には決して、直接触れることができないというようなことを言っている。触ってはいても、認識することができない。経験することができない。

 カントやドゥールーズやラカンは、普通に考えると、信じられないような変なことを言っているのだ。現実は、決して直接経験することができない、見ることも聞くこともできない。それは、想像するほかないのだ。人間は、自ら創ったものや想像したものしか見ることができない、経験することができない。おかしな話である。

 しかし、よくよく考えてみると、それはそんなに変な話ではない、ということに気づくことになる。言葉とは何なのか、人間が理解するとはどういうことか、人間は、見るという時何を見ているのか、何を聞いているのか。

 人間は、すでに知っていることしか知ることができない。

 まったく新たなことを発見するなどできない。

 そうなのかもしれない。

 しかし、あがくように、なにかを知ることはできるのかもしれない。

 どこかで、ほんとうに遠くで、かすかに本源的な自然に触れることができるのかもしれない。

 それは、ほんとうにかすかなことに違いない。

 ふつうの人間は、ほとんどそれに気づくことがない。

 「人間がどんなに途方もない犯罪を犯したところで、よしんば徹底的に環境破壊を進めたところで、生物界は消滅などしてくれず、否定的な出来事など何も無かったかのように、相も変わらず個々の生物を生み出す個体化を繰り返すということです。第二の自然の「規律と法則」に変わりはないということです。人間の犯罪なんて、自然界に対してはひっかき傷程度のものすら残せないのです。どんなに人間が殺されて死んでも、どこかで人間が、しかもそれまでの人間と大差のない人間が生まれてくるのです。」(15ページ)

 希望は持てるということなのか?希望は持てないということなのか?

 希望は持てない、ということはない。

 一握りの狂った人間には可能らしい。真面目ではない放蕩者、秩序紊乱者には、ほんの少しだけ、奇跡のように第一の自然に触れる可能性が与えられる。

 「放蕩者とは、狂える第一の自然に到達するためには、第二の自然の内部で動きすぎるしかないと思考するもののことなのです。」(18ページ)

 ふむ、わかったような気がしないでもない。

と ころで、小泉の後輩、あるいは、部下にあたる千葉雅也は、同じくドゥールーズに依拠しながら、その著作の題名の通り「動きすぎてはいけない」と唱える。

 動けばいいのか、動かなければいいのか。またしても、わからない、と言わざるを得ない。

 「しかし、私は、ドゥールーズに限らず、フロイトにしても、その用語は豪華絢爛に見えますが、実にシンプルなことを、どんな凡庸な人間も心得ていることを書きあらわそうとしているのだと解しています。こう言えば笑われるでしょうが、二人とも、人生をいかに生きるかという問いについて考えているだけなのです。…少し刺激的な言い方をしておくなら、精神や心の学問や思想、精神分析・精神医学・臨床心理などは人生論でしかないし、人生論ではあるし、まさに人生論そのものなのです。」(93ページ)

 さて、そういうことで、ドゥールーズの哲学は人生論であるということだ。

 恐らく、私がここで書いたものを読んで、ドゥールーズが、そして小泉義之がなにを書いているのか、何を言いたいのか、ということはほとんどひとつも伝わっていないと思う。私自身が、ひとつもわからないのだから、それはあたり前のことである。

 しかし、そうだな、「第二の自然」ということについては、一ミリメートルくらいは理解が進んだような気がする。

 「第二の自然」ということについて、あらためて書くことはあるだろうと思う。

 あとは、「人間がどんなに途方もない犯罪を犯したところで、…(中略)…どんなに人間が殺されて死んでも、どこかで人間が、しかもそれまでの人間と大差のない人間が生まれてくるのです。」という本書15ページからの引用のところは、リアリティを持って納得できるものがあった、ということは付け加えておきたい。というか、このところは、そんなことばかり考えていると言っても過言ではない。


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