八坂氏は、京都大学大学院文学研究科の博士課程で、西田哲学を学ぶ哲学の徒である。本格的な哲学者の途を歩んでいる若き研究者。東大の哲学科から、西田哲学を学ばんと京大の院に進まれたが、現在は、宮城県石巻市に在住して、NPOを立ち上げたとか。若き起業家でもあるらしい。
実は、前回、11月3日の哲学カフェに、唯書館の昆野純くんと参加してくれた。
「西田の思索において画期的な意義を持つ「場所」という概念は、主語が述語に包まれるという判断の包摂的関係に関する考察から生まれた。主語を包む述語面が「場所」として把握されたのである。」(136ページ 序に代えて)
まあ、こういう文章を読んで、何が書いてあるかわかる人もそんなにはいないと思う。
「「純粋経験」とは我々の反省ないし判断を経る以前のあるがままの経験のことである。しかし、「純粋経験」には問題点があった。反省を経ない「純粋」な経験からいかにして反省や判断が生じてくるのだろうか。西田は「純粋経験」に思惟をも含めることで問題を解決しようとした。しかしそれでは「純粋経験」の「純粋」たる所以は失われてしまうのではないか、との疑念が高橋里美によって『禅の研究』出版の直後に呈されている。」(136ページ)
哲学とは実は数学みたいなものである。ひとつの仮定を立てて、その仮定から議論を導き出して、なんらかの結論を得る。その議論の過程の中に矛盾がないように、誤りがないように言葉をつないで、結論を導き出す。
これは、実は、ひとりの人間が実人生を生きていくということと、とりあえずは関係のない、一個のゲームのようなものである。
上で言う「純粋経験」などというものを言いださなくとも、私たちは日常の生活を滞りなく生きていくことが可能なのである。
だが、しかし、だからと言って哲学は役に立たない無用のものだ、ということにはならない。
無意味な数式の羅列にしか見えない、というひとも多数いるだろう数学が、さまざまな実学の基礎になっているのと同様のことだとは言えるのだろう。
で、上の引用について少し何かしらのことを語っておくとすれば、17世紀のフランスの哲学者デカルトのことから、簡単に言ってみたい。
まあ、私は、格式の高い「哲学」からは、降りた人間であるから、そんなに正確なもの言いができるわけでもないが、少々我慢してつきあっていただきたい。
デカルトは、「コギト・エルゴ・スム」という呪文のような言葉で有名なフランス合理論の祖。ラテン語を日本語に訳すと「我思う、故に我在り」。
この「我思う、故に我在り」というのは、この世の中には真実もあるには違いないが、ざまざまな誤りにも満ちている、そういう中で、デカルトは何が正しくて何が間違いなのか、ちょっと腰を落ち着けてじっくりと考えてみようとした、そのときに、一応、あれも疑い、これも疑うという過程の中で、ほんとうに確かなもの、疑いようのないものを探り当てようとした、その果てに発見された言葉である。
確かなものを発見するために一応疑ってみる手法を「方法的懐疑」という。
ここで、たとえ話を挟み込むと分かりやすくもあるのだが、それは省略して、デカルトは、ここで、疑っている私が存在していることは疑いようがない、ということに思い当たった。疑っている私がいま、ここにいる。私がいなければ疑い自体生じようがない。
疑っているということは、考えているということである。思っているということである。意識があるということである。
私という意識が存在している。(私という「肉体」は存在しているとは限らない、確実に存在しているとは言えないというのだ。)
この確かなものから、反転して、あらゆるものの存在を確かめていく。証明していく。実証していく。(私の「肉体」の存在も、あらためて証明しなければならないと。)
これが合理論である。
肉体も身の回りの物質もすべて捨て去ったあとに残された「純粋意識」。そこからすべてを演繹して、説明を始めて、物質や肉体の存在を再度証明していこうとする。
この合理論こそは、現代の科学の生みの親である。最近では、エヴィデンスとか、かまびすしく唱えられる、そのおおもとにデカルトは存在する。
「私はデカルトを許さない」と、唱えたのは、例の「考える葦」のパスカルであるが、デカルトこそ、現在に通じる諸悪の根源、という捉え方もある。実際のところは、言ってみれば「諸善の根源」でもあるわけだ。
ここで、いろいろ語り始めると、現在の世界の成り立ちについての壮大な物語が始まるのだが、それは、はしょる。
で、西田幾多郎が、「純粋経験」といったのは、デカルトの「純粋意識」に対抗して、それに反論を唱えるためであった。
そもそも「思い」からすべての物質の存在を証明するなどということは無理なことなのである。簡単に言ってしまえば。
もっとも、デカルトの方法をきちんと「方法」としてとらえ、確実な根拠を探り当ててそこからさまざまなことを説明し直そうとすることは何ら間違いではないし、相当に有効な取り組みであることは論を待たない。ま、それが「科学」である。
しかし、そこには、いろいろな要素が絡まり込み、物語が始まり、知らないうちに議論が飛躍し、などというプロセスを経て、迷信だったり、誤りが忍び込むということにはなるわけである。
説明できることは、必ずしも証明できることと同じではない。一応の説明は出来たとしても、それは、全く正しいことの証明であるとは限らない。(もちろん、証明できることも多々ある。)
さらに言えば、デカルトの方法は、決して、存在を生み出す魔法ではない。存在の根拠を生み出すものではない。何かをうまく説明できたとしても、それは、そのものを創り出すための手段とは別である。
デカルトの懐疑を、あくまで、方法としてとらえる限りは特段の不都合は生じないはずである。
しかし、そこに存在の根拠を見出そうとすると、問題が生じてくる。
西田幾多郎のいう「純粋経験」は、「純粋意識」にマイナスの符号をつけたもののようなものであって、全くの相似形、あくまで、思考実験的なものでしかない、と私は考える。
現実にはそんなものは存在しない、というべきである。
私たちは、この肉体でもって、何故だか知らないけれども、すでにここに存在してしまっている。両親から生まれて、この世界に住みはじめた。そこから出発するほかない、と私は考える。それ以前のことは、全く謎のままでいい。謎のままでいいのだが、しかし、人間は、何かを考えてしまう。想像してしまう。
たとえば、神を想定してしまう。それはそれで、いい。
謎。そこに謎がある、ということだけは、クリアに押さえておいた方がいい。
最後の地点の謎。
その謎に対して、人間は謙虚であるべきだと思う。
ただ、人間は、謎があれば、その謎を解き明かそうとし始める。
こういう思考実験は、必要なものであり、貴重なことである。
先に引いた個所にこうある。
「西田は「純粋経験」に思惟をも含めることで問題を解決しようとした。」(136ページ)
西田は西田の思考実験を突き詰めた先に、一個の神秘を置かざるをえなかった。
ただ、これは、普通に考えれば神秘でも何でもない。私たち人間が、肉体と意識の両面をもって生きているという当然のことを言っているにすぎないのである。
また、上に引いた中に出てくる「場所」という言葉。説明は省くが、西田の「場所」という概念が、中村雄二郎、そして、鷲田清一と引き継がれる重要な概念であるとは言っておきたい。受動の知、臨床の知。この先は、また改めて。
ふう。
八坂氏の論文の紹介を書くというよりは、それに触発されて、私が考えていることの一端を述べた、ということだな、この文章は。メモ、のレベルのもの。
ただ、かなり基本的なところではある。恐らく。
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