訳者は、阿部齊。筑波大学教授。専攻は、政治哲学、アメリカ政治学とのこと。
ハンナ・アレントは、ドイツ生まれで、マールブルク大学でハイデガー、フライブルク大学でフッサール、ハイデルベルク大学でヤスパースに学ぶ。
ハイデガー!フッサール!ヤスパース!である。こうして並べて書くともの凄いことに思える。いや、そもそも今になってみれば、ハンナ・アレントも偉大な学者である。哲学者、政治哲学者、ということになるのだろう。
その後、アメリカの大学で教鞭をとり、執筆活動を行っている。世に出たのは、アメリカにおいて。なぜアメリカかと言えば、もちろん、ナチス・ドイツに迫害されて亡命したから。
アメリカの学問というと、どうも軽薄なとか思いたくなる。アレントは、1975年に亡くなっている。私が19歳、大学1年生のとき。2年生から、専攻として一応哲学を選択することになるのだが、当時は、そんなに学ぶべき存在とは位置付けられていなかったように思う。ハイデガーの云々で名前は聞いていたし、一部の先鋭的な学者は注目すべき存在と見ていたとは思うが、なんとなく、アメリカだし、みたいにも思っていた。
しかし、アメリカだから軽薄だ、などというのはそれこそ軽薄な決めつけであり、思い込みに過ぎない。ヨーロッパの学問の伝統のなかにしっかりと位置づいているわけである。そんな中でアレントのような亡命ユダヤ人の存在は大きいと言える。学問のみではない、文化面でも大きな足跡を残している。文学、映画…。
彼らは、ヨーロッパ、とくにドイツから亡命した人々であった。
「かくてかれらは、互いにそれぞれの短い生涯を過ごした時代、すなわち政治的大動乱と道徳的災厄に満ちていながら、芸術と科学とにおいては驚異的な発展をとげた二〇世紀前半の世界を分かちあっているのである。この時代はかれらのうちのあるものを殺し、他のものの生涯と仕事とを限定づけることになったが、時代の影響を受けなかったものはきわめてわずかであったし、時代の課する条件を免れていたといえるものはひとりもなかった。」(7ページ)
この書物に取り上げられた人物たちのうち、アメリカに亡命したものは一部であるが、道徳的災厄に満ちたその世界を分かち合っていたひとびとのひとりが、アレント自身であることは言うまでもない。
この引用の中に、「この時代はかれらのうちのあるものを殺し」と、驚くべき事柄が、一見さらりと書き記されている。かれらのうちのあるものは殺されたのである(追い詰められての自死を含め)。
「…私は、この歴史的に未曽有の時代、本書の題名である「暗い時代」は本書のいたるところに姿を現していると思う。私はこの言葉をブレヒトの有名な詩「あとから生まれるひとびとに」から借用したのであるが、そこには混乱と飢餓、虐殺と虐殺者、不正に対する暴動と「悪のみがあって暴動の存在しないこと」への絶望、人を醜悪にするとしても正統なる憎悪、声を騒音にするとしても根拠ある憤激などが描かれている。」(8ページ)
「暗い時代」とは、どういう時代か。上の引用の後半は、必ずしも分かりやすくはない。〈そこには …などが描かれている〉の間に並べられているのは、下記の5つのセットである。
1混乱と飢餓
2虐殺と虐殺者
3不正に対する暴動と「悪のみがあって暴動の存在しないこと」への絶望
4人を醜悪にするとしても正統なる憎悪
5声を騒音にするとしても根拠ある憤激
1~2は、〈と〉で並べられた二つの名詞。4~5は、一つの名詞を修飾する〈するとしても〉の前と後の形容語がセットになっている。これらは、言っていることは明白で、疑問の余地はない。まさに暗い時代の出来事に相違ない。ただ、3は、少々、分かりづらい。絶望という言葉は、〈暴動〉に対しても絶望しているのか、後段の〈暴動の存在しないこと〉にのみ絶望しているのか。どちらとも取れそうである。
ここは、おそらく、後段の〈暴動の存在しないこと〉のほうに絶望している、と読むのが正しい。〈不正に対する暴動〉自体に絶望しているわけではなく、むしろ、ここでは、〈暴動の存在〉を肯定していると読むべきだろう。原文がどうなっているのか、翻訳の仕方の問題もあるだろうか。
分かりづらいというのは、以上のような、文法的な、あるいは、翻訳上のことだけではない。
アレントは、〈不正に対する暴動〉、〈正統なる憎悪〉、〈根拠ある憤激〉と、形容語なしに2文字熟語だけではふつうには否定的に捉えられるであろう言葉を、むしろ、肯定的に使っている。ブレヒトからの引用だろうが、ここでは、アレント自身の言葉と捉えてよい。
私たちの世代は、〈暴動〉、〈憎悪〉、〈憤激〉という言葉を、肯定的に使う使い方に慣れ親しんできた世代である。いまの若い人々には分かりづらいことになってしまっているのかもしれない。悲惨に満ちた現在の体制をひっくり返して、すべてのひとが人間らしく生きられる理想の社会をつくり上げなければならないと使命感に燃えていた。端的に言えば〈革命〉である。〈造反有理〉である。
では〈革命〉とは何か、どういう理想を掲げたのか、それがどういう顛末を迎えたのか、しかし、さらに今何を求めるべきなのか、現時点で語るべきこと、解き明かすべきことはある、のだが、ここでは省略する。今の私の手には負えない、と言っておくべきなのかもしれない。
アレントは、続けてこう書く。
「こうしたことはすべて、それが公的に生じたときには明らかに現実のものであった。そこには秘密も神秘も存在しなかった。それでもなお、それはすべての人に見えるものではなかったし、またそれを看破することも決して容易ではなかった。破局が突如としてあらゆる事物と人々に襲いかかるまでは、それは現実によってではなく、ほとんどすべての公的代弁者によるきわめて効果的な空話と無駄話によって覆い隠されていたからである。かれらは絶えず多くの巧妙なヴァリエーションを用いて不愉快な事実をうまく言いまぎらわし、事態を正当化していたのである。」(8ページ)
ここで〈公的〉とはどういうことか。〈公的代弁者〉とは誰れのことか。
いずれ、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に生じたこと、ナチス・ドイツが行ったこと、ヒトラーとその取り巻き、その周辺の学者や芸術家が語ったこと、そのあたりのことが問題とされていることに間違いはないのだが、アレントはなぜ(公的)という言葉を使い、〈公的代弁者〉と言ったのか。
それは、この本を読み、さらに他のアレントの著作に当たっていく中で明確に知りえることであろう。
この書物で取り上げられる人物は、18世紀ドイツの啓蒙思想家であるレッシングのほかは、すべて、この「暗い時代」の登場人物である。
理論家にして革命家ローザ・ルクセンブルク、アレントの師である哲学者カール・ヤスパース、「アフリカの日々」の小説家アイザック・ディネーセン、オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホ。
そして、ヴァルター・ベンヤミン。
詩人にして劇作家のベルトヒト・ブレヒト。
最後の二人ワルデマール・グリアンとランダル・ジャレルは、私は、この書物で初めて出会った人物である。
ローザ・ルクセンブルクについてはこんなふうに書かれる。
「彼女はきわめて若くして故国ポーランドからドイツ社会民主党のなかへ追い払われており、ポーランド社会主義というほとんど知られず無視されてきた歴史の中で主要な役割を演じ続け、ついで約二〇年にわたって、公認されたことはまったくなかったとはいえ、ドイツ左翼運動のなかで最も論議の的となりながら最も理解されない人物となったのである。生前、死、死後のどの時期においても、ローザ・ルクセンブルクに許されなかったものはまさに成功——―彼女自身が属していた革命家の世界における成功さえ―—であった。」(58ページ)
悲劇の主人公、などという紋切り型の表現は使いたくないが、そうとしか呼びようのない事態、といえばいいのか。
「一九世紀の最後の一〇年間から一九一九年一月の運命の日にいたるヨーロッパ社会主義にとって決定的な時期…。この日、スパルタクス団の指導者であり、ドイツ共産党の先駆者であったローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの二人は、ベルリンにおいて殺害された」(59ページ)
ローザ・ルクセンブルクこそ、暗い時代の犠牲者である、という他ない。
ヘルマン・ブロッホは、ナチスの迫害を逃れて、アメリカに亡命した作家だという。その創作した作品が、アウシュビッツの収容所というおぞましい現実と一致してしまったのだと。
「伝記的にいうと、人生の葛藤という意味での「意に反した詩人」という表現は、何よりもまず『ウェルギリウスの死』以降の時期に該当する。この作品によって、文学が一般にもつ問題が文学作品それ自体の主題的内容となったのであり、さらにこの作品の完成が、死の収容所における大量殺人の発覚というこの時代における最大の衝撃的な出来事と一致していたため、以後ブロッホはそれ以上の創作活動を断念するとともに、あらゆる葛藤を解決する手慣れた方法を断念したのである。」(179ページ)
そして、ヴァルター・ベンヤミン。冒頭は、こう書き出される。
「名声の女神ファーマは、人々に熱望される女神であるがいろいろな相貌をもち、…多種多様である。死後の名声は他の名声に比べると、…気まぐれなものでなくむしろ信頼度は高いのであるが、…こうした商業的でなく、実利的でない死後の名声が、今日ドイツではヴァルター・ベンヤミンの名前と仕事の上に訪れている。ヒトラーの政権掌握とベンヤミン自身の亡命に先行する一〇年足らずの間、このドイツ系ユダヤ人はそれほど有名ではなかったが、…死後一五年して、ドイツで二巻本の著作集が刊行されるとすぐ、かれの生前を知っていた少数の人々の間での評価をはるかに超える声望がもたらされたのである。」(239)ページ
ベンヤミンは、生きている間、不遇であった。基本的に不幸であった。暗い時代をこそ生きていた。
「時として時代は、最もわずかしかその影響を蒙らず、最もその時代から遠く、したがって最も強く苦しんだ人に、最も明瞭にその印を刻むものである。プルースト、カフカ、カール・クラウス、さらにはベンヤミンがそうであった。かれの仕種、聞いたり話したりするときの身のこなし、立居振舞、習慣、とくに単語の選びかたから文章の構成のしかたまでを含めた話しかたのスタイル、さらにはまったく特異な嗜好、ベンヤミンにおけるこうしたすべては、きわめて古くさく、まるで見知らぬ島の海岸に突然うちあげられるといった形で、一九世紀から二〇世紀にさまよい出たようにさえみえる。かれははたして二〇世紀のドイツでくつろいだ気持ちになれたであろうか。おそらくそうではあるまい。」(268ページ)
アレントは、ベンヤミンを古くさい時代遅れの人物だと言っている。しかし、だからと言って、否定的に描いているわけではない。嫌いだと言っているわけではない。この「暗い時代」から最も遠い人物は、天使的な美しい人物であると語っているように聞こえてくる。若くして自ら命を絶った人物への、一途な愛を語っているようにも見えてくる。
「一九一三年にかれが非常に若くして初めてパリを訪れたとき、数日間滞在しただけのパリの街路が、見慣れたベルリンの街路よりも「むしろくつろげる」ほどに感じられた。…そこには一九世紀ヨーロッパを文化的に規定した卓越した国家(nation par excellence)が存在し、オスマンはその国のためにベンヤミンのいう「一九世紀の首都」パリを再建した。」(269ページ)
ベンヤミンと言えば、何といっても『パサージュ論』である。アーケイドに覆われた洒落た個店の連なり。ブティーク、カフェを行きかう遊歩客。
ああ、そうだな。私は、20世紀の東京の、池袋や渋谷のパルコ、原宿の表参道あたりを、丹念に資料に当たることをせずに、もっぱら、この部屋の机に座って、コーヒーを飲みながら、記憶を想い起こして書く、ということをすべきかもしれないな。
ブレヒトのこともちょっと書きたいと思うが、止めておく。ブレヒトとか、ベケットとか、昔の日本の新劇に連なるところは一度は観ておきたいものだが、まだ、そういう機会に恵まれない。
さて、アレントは、次に「人間の条件」だな。
※参考まで、以前に書いたものを挙げておく。「パサージュ論のこと」というのは、未だ読む前に、憧れを書いたもの。
柿木 伸之 ヴァルター・ベンヤミン― 闇を歩く批評 岩波新書
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/bf5995713f736c09d1f932583b051dac
エッセイ ヴァルター・ベンヤミン パサージュ論のこと
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/d46ea4083f0187e1754a6fddd6fed820
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