つねづね、映画とワインのことは語らない、と言っているが、まあ、それは原則的には、ということに、少しゆるくするということで。
小林監督が、映画は観なさいというのは当然のこととして、壤晴彦さんにも、とにかく観ることです、と勧められてはいるのだが、映画とワインについては、今の年齢からどうこうしても、ひとに決して追いつくことができない世界であることに間違いはない。
これは、独特の映画、なのだと思う。
華やかなところがひとつもない、地味な映画だ。
登場人物が3人だけ。台詞のあるのが3人という意味でなく、画面上に登場する人間が3人しかいない、ということ。エキストラも、通行人も出てこない。往来の自動車も、一台も映っていなかったような気がする。バックにコンビニのローソンが映っている場面でも、店内の様子までは映りこんでいないし、路上を走る車もなかったと思う。
生活もギリギリ、経済的にも、人間関係的にもギリギリ、精神的にもギリギリの3姉妹という設定。
ロケ地は、気仙沼市唐桑。唐桑の家、その庭、唐桑の海岸、小学校の庭(たぶん中井小学校)、総合支所(元の役場)に近いコンビニ前の路上。震災の後の唐桑。津波で流された家の跡。
唐桑コミュニティ図書館所蔵、松雪泰子さん寄贈による映画DVDのひとつ。
唐桑の松雪文庫には、小林監督のは、あと「春との旅」がある。先日BSで放送された「春との旅」も独特の映画だったが、あちらは登場人物も多いし、通行人も多数映りこんでいた。(私もエキストラで出ている。)
渡辺真起子という女優も、テレビで小泉今日子と共演しているときとは、まったく別の女優のようだ。カメラの前で、すっピンで大写しで、怒っているように感情を露わにして、こういうのは冒険であり、挑戦であるのだろう。
ニューヨークにいたダンサーという設定で、草ぼうぼうの庭で何か踊り、ラストに近いシーンで、海に突き出した防波堤のうえで何か踊っている。ゆらゆらふわふわとからだをくねらせて、上手いのか下手なのかよくわからない踊りを踊っている。大きな跳躍もないし、静止したポーズもないし、ロボットダンスでもないし、無理な姿勢を続けるわけでもないし、あ、巧みだ、上手だと明確に言えるような振りではないからだが、しかし、何と言ったらいいのか、破綻のない、奇妙に癖になるような、どこかでバランスのとれているような踊りではある。
ダンスのレッスンを本格的に受けたことがあるひとなのかどうか、定かでないが。
冒頭のシーンが、30分だかそれ以上だかの相当に長い長回しのシーンということで、映画としてはありえない長さらしいが、役者も相当に大変なのだろうとは思う。
地味な映画だが、見てしまう。最後まで、見続けてしまう。
小林監督の作品だから、唐桑が舞台だから、全て唐桑でのロケだから、ということもあるのだろうが、なぜか最後まで観てしまう。面白い展開も筋立ても何もないのにもかかわらず。
無駄なシーンがひとつもない、ということかもしれない。冗長なシーン、冗長な動き、冗長なセリフ、そういうものがひとつもない、ということかもしれない。
誤解のないように言っておけば、これは、性急な動きに満ちているということではない。むしろ、そんなスピード感にあふれるようなシーンはひとつもなく、むしろ、全てが、ゆっくりと動いていく。のんびりと動いていく。しかし、そこに冗長さはない。的確に過不足なく収まっている、というのか。必要なシーンのみが、粛々と続いていく、というのか。
ぼくは、映画のことを語る語彙をもたないので、こういうことを言うのが適切なのかどうかわからないが。
この映画自体のことではなくなってしまうが、フランスの昔の地味な映画を観た、という場合、映りこんでいる風景や家の内部の光景としての美しさというものがあったはずだと思う。フランスだったらフランスという国の文化を見る、歴史のなかで自然に形成されてきたかのような風景を見る、建物を見る、インテリアを見る、場合によっては、壁の絵を見たり、家具や食器を見る、それらのすべては美しいものとしてうっとりと見とれてしまう、そして憧れる、というのが海外の映画を見る喜びであった。白黒ではないにしても、ほとんど無彩色と言ってしまいたいような石の壁だったりしても美しい。
ところが、この映画の唐桑の風景はどうだろう。確かに、自然の海岸は美しい。しかし、木造建築、旧来の木造家屋に、新建材を使ったリビング部分、キッチン部分を継ぎ足した家は美しいだろうか?アスファルトの舗装道路の両側に、畑や民家が並ぶ光景は美しいだろうか。荒れがちな海に突き出したコンクリートの防波堤は美しいだろうか。
いや、これは、この映画だけのことでなく、日本の映画全般についてのことだし、映画に限らない、この国の風景のことだ。
どちらにしても、この映画に絵としてのシーンの美しさがあるわけではない。海岸の自然も、からりと晴れ上がった青空のもとではなく、曇り空の鈍い、鮮やかさの無い色合いのものでしかない。いや、だが、奇妙な美しさのようなものは、確かにある。
登場人物たちの女としての美しさ、美しさというよりはコケティッシュだったりする魅力、男を引きつけるような魅力で見せるということもない。人間としての存在感は確かに十分にある。それはある種の美しさだと言っても構わないとは思う。
二女の役のひとは、ふつうにかなりきれいな女優さんだとも思うが、そういうふうには撮られていない。きれいだと言うことをことのほか際立たせるような撮りかたはしていない。たぶん。
何かとても奇妙な映画だった。その映像に憧れることもできないのに、見続けてしまう。
末娘の女優は、風貌がちょっと熊谷羊に似ている。唐桑の半造レストハウスにいたり、突端の御崎の津波体験館にいたりする羊。でも羊は長女だし、全然違うが。これも、映画とは関係ない話だな。
ところで、念のため言っておけば、松雪泰子さんは、唐桑図書館への、黒沢明とか、寅さんとか、ディズニー、ジブリを含む大量のDVDの寄贈者であり、この映画に直接かかわると言うことではない。震災以降の大きな寄付のひとつとして。
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