ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

最近の大学は

2014-05-24 00:28:07 | エッセイ

 最近の大学は、すべからく、ICU化しようとしている、というふうに見える。国際基督教大学(International Christian University)のような、リベラル・アーツの大学を目指しているようだ。これは、なんらかのエヴィデンス(明証、確証、統計的な数字に基づく証拠)に基づいて語っているわけではなくて、私個人の印象として、ということなのだが。

 リベラル・アーツとは、中世以来の伝統の教養科目。

 ICUの教養学部は、語学教育に定評あり、卒業生は、各方面で活躍しているが、国際機関や、NGOに就職し、海外で活躍する人材も多い。

 曰く、グローバルに活躍できる人材の供給源でありつづけた。

 真偽のほどは定かでないが、ニューヨークの同窓会支部には数百名の卒業生が参加しており、その総会・懇親会での会話は、当然、全て英語だ、とか、まことしやかに語られている。

 偏差値的には、早・慶・上智、そして東京理科大とICUが、私大のトップ5と位置づけられており、その下に、いわゆるMARCH(明治、青山、立教、中央、法政)が続くらしいが、特に東北など首都圏以外では、ICUの知名度は格段に落ちる。定員が極端に少ないので、すなわち卒業生が少ないということも、一因ではあるだろう。

 しかし、実は、すべての大学はICUを目指す、とでもいうような事態となっている、そんな大学なのだ。

 最近とみに増えている学部の名称は、国際教養学部や、そのままずばりリベラルアーツ学部など。

 早稲田大学の国際教養学部、上智も同じ名称。慶応のSFC(湘南藤沢キャンパス)の総合政策学部と環境情報学部のセットも、別物だとは言うのだろうが、SFCという略称を用いることも含め、少なくともイメージ的にはあやかろうとしたことは間違いないことに思われる。

 (埼玉大学の教養学部は、むしろ、東大の教養学部をまねたというニュアンスが強いだろう。文理学部の分割改組の時期は結構早い。東大教養学部の前身である旧制一高と、埼大の前身浦和高校との関係性というか因縁というか、具体的には分からないが、何かあるのだと思う。が、それにしても、ICUも意識していたことは間違いない。)

 国(文科省)の方針による補助金である科研費(科学研究費助成)は競争的研究資金ということで、役に立つ学術研究を競争的に審査して、研究費を助成する。役に立つというのは、つまり、グローバル人材を養成するというのが最近の流れということになる。

 旧来の大学が脱皮して、役に立つ新しい学問を追求するみたいな話なのだが、それぞれの大学の特性を生かして得意分野を伸ばしていくということでなく、グローバルなという掛け声のもと、むしろ画一化してしまうというふうに見える。

 それは、まさにICUをモデルにした画一化、のような。

 しかし、世の中のすべての大学が、ICUになれるわけではない。世の中のすべての大学が、英語力に優れた人材を生み出せるわけではない。

 大学ごとの違いが、それぞれの特色によって違うというのでなく、英語力だとか、英語によるビジネス力とかいうような単一の尺度の中で、その達成度の差による違いということでしかないということになりかねない。単一の尺度のなかでの序列でしかない、ということになってしまう。

 国立大学についていうと、独立法人化に伴い、各大学の運営の自由度が高まるのでなく、基本的な国の負担金を絞り込むことによって、むしろ、自由度を落としている。そして、審査を伴う補助金を増やして、競争させる。競争だから落ちる場合もある。そして、審査を通る研究というのは、社会の役に立つ、結果が見える研究ということになる。役に立つというのは、単純に言えば、金の稼げる研究ということになる。ビジネスに役立つ研究。そういう研究をしていれば、研究費も支給される。そういう方向への画一化がずんずんと進んでいる。大学の画一化が急速に進んでいる、というふうに言えるのではないか?

 これは、これから、どんなことになっていくのか。日本は、どんな方向に進んで行こうとするのか?

 まあ、もっとも、これまでも、入学時点の難易度の序列で、大学の序列は定まっており、みたいな、世の中総序列化みたいなことはすでに定まっている、というふうにも言えるのかもしれないが。

 その中で、ICUは埋もれていってしまうのか?むしろ、本家本元としてますます栄えるのか?(あ、ICUは、グローバルな人材を供給し続けているのは間違いないが、競争だとか、序列だとかからは、むしろ遠い、学生個人の個性を大切にする、それぞれ個別の学びを大切にする、本来のリベラル・アーツの大学だ、といえる。序列から最も遠い大学が、序列化のモデルの様になっているというアイロニー、皮肉。)

 それぞれ個別のユニークさを求めるつもりで、全体の画一化に進んでしまうアイロニー。競争にさらされること。競争を勝ち抜く力を身につけようとすること。身に着けさせようとすること。どうなんだろうか?

 ひとつ確実に言えることは、日本の社会が成り立って行くうえで、グローバルな競争に勝ち抜ける能力を有する人間が、一定程度の人数、一定程度の割合で必要なことは確実なこと、ということに間違いはないが、だからと言って、日本人全員が、グローバルな能力を身につけていなくてはいけないかといえば、これもまた、決してそんなことはないわけだ。言うまでもないことだが。

 良き日本人として、日本の社会の中で生き延びていける能力を身につけた人間も必要なことは間違いない。というか、むしろ、そういう人間が大多数を占めているのでなければ、日本の社会は成り立って行かないはずだ。

 我が大学は良き日本人として日本の社会の中でよく生きていける人材を育てます、という謳い文句を掲げる大学、というのを、あまり見たことがない気がするのは、単に私の情報収集能力の不足によるものだろうか?


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