著者としては、伊藤亜紗のほか、中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯崎憲一郎の5名である。
磯崎氏は、小説家とのことであるが、ここではじめて出会った。伊藤氏は、専門誌『精神看護』の巻頭エッセイを書かれており、オープンダイアローグ関連の特集で買い求めた際に読ませていただいているが、美学者とのこと。他の3名の方々は、すでに何冊かづつ著作を買い求め読んでおり、このブログでも紹介させていただいた。中島氏は、政治学者、歴史学者。若松氏は、批評家、随筆家というが、東京工業大学教授としては、人間文化論、近代日本精神史を担当されているらしい。國分氏は、哲学者である。『中動態の世界』が主著と言っていいと思う。現時点で最もアクティブで重要な哲学者といっていいだろう。
【ビジネスと利他、ファッションと利他】
伊藤氏は、「はじめに-コロナと利他」を書いておられる。フランスの経済学者ジャック・アタリなどを引きつつ、いま、利他という言葉が注目を集めていると。
「ビジネスの現場においても、利他ということばを耳にする機会が増えてきました。」(4ページ)
利己的な人々の戦いの場とも捉えられがちなビジネスの現場においても、全く逆のイメージである利他と言う言葉が広がっているのだと。
例として、ファッションの世界を取り上げる。
「たとえば、ファッションの世界、ファッションというと自分を着飾る利己的なイメージはありますが、もはやそれだけではないのです。ファッション誌「Harpaer’s BAZAR」の編集長、塚本香さんは、「今、ファッショナブルって何?」というコーナ-で、ファッショナブルを定義するうえで「利他主義もこれからの重要なエレメントになる」と語っています。」(4ページ)
「背景には、アパレル産業が抱える深刻な問題があります。」(5ページ)
約6割が着られることもなく廃棄される大量廃棄、染色の過程での多量の化学物質の使用、廃棄、発展途上国における安価な労働力の搾取。このまま行けば、いつか、地球はもはや人間の住めない場所に成り果ててしまう。
「2019年にはついに、国連貿易開発会議で、ファッションは「世界で第2位の汚染産業」との汚名を着せられてしまいました。」(5ページ)
私が思うに、ファッションは、本来、時代を先取りして、あるべき未来を指し示すべきものである。人類の未来への希望を提示できないようでは、ファッションの名に値しない。未来への希望を語らないにしても、現在の大勢に飲み込まれてしまわずに、ある場合は過去のほうへ、ある場合は、横に距離を置く。
このまま現在の大量生産、大量廃棄の体制にしがみついたままでは、他のすべての産業と同じく、早晩、やっていけなくなる、のであると同時に、現在の大勢に、体制に飲み込まれたまま、泥船にしがみつくような、もっともカッコわるく、ダサい事態ということになってしまう。ファッション業界こそ、ファッショナブルに、軽やかに、先立って、持続可能な世界を構築する方向へ舵を切らなければならないはずである。
この二つの段落は、私の勝手な付け足しであるが、その意味では、ファッション誌の編集者が、「利他」の必要性を語る、というのは然るべきことである。
伊藤氏は、ここで、こういう世の中が、本来的に「利己的」なものではないのだという。
「科学技術も、社会の営みも本来は利他的なものであったはずです。」(6ページ)
それはたしかに、その通りのことであろう。
【5つの章の内容】
引き続き、伊藤氏自身が、簡潔に手際よく、もちろん、適切に、各章の内容を紹介されているので、抜粋しつつ引用する。
「第一章では、私、伊藤亜紗が、利他をめぐる近年の主要な動向を整理しつつ、共感や数値化など、そこに潜む問題を指摘します。そしてケアの具体的な場面に焦点を合わせながら、制御できないものに開かれた「余白」を持つことに利他の可能性を見出します。…
続く第二章では、中島岳志さんが、「贈与」や「他力」といった利他の根幹に関わる問題について、志賀直哉の作品や親鸞の言葉などを手がかりに論じます。贈与には、相手に負債の感覚を植え付け、支配することにつながる残酷な面があります。…
第三章では、若松英輔さんが、柳宗悦や濱田庄司のテキストを通して「民藝」の美に迫ります。…
第四章では、國分功一郎さんが、中動態の枠組みから、近代的な「責任」概念をアップデートします。…
第五章では、磯崎憲一郎さんが、小説の実作者の立場から、「つくる」行為の歴史性について語っています。つくるというと能動的な行為のように思えますが、書くことは予期せぬ流れに乗って「逸(そ)れて」いくことでもある。そうやって生まれた作品は、結果として、連綿と続く小説の歴史に奉仕するための仕事になっている、と磯崎さんは言います。」(7ページ)
これらすべて、「利他」という言葉をめぐっての論考ということになる。この抜粋だけではどう「利他」と結びつくのか、分かりやすくはないかもしれないが、そこは、読んでのお楽しみとなる。
【東京工業大学のリベラルアーツ】
で、この5人が一緒になってこの新書を編んだのは何故か。
「私たち五名は、東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」のメンバーとして、現在進行形で共同研究を行っています。私たちは「利他」という問題をめぐって、日々意見を交換し、雑談し、わいわいと議論しています。
本書は、私たちが全員で育んできた利他をめぐる思考の、五通りの変奏です。その意味では、五章すべてが、五人による共著ともいえます。」(7ページ)
東京工業大学という日本の理系の大学のトップに位置する大学で、そうそうたる顔ぶれが集まって文系の課題を論ずる。
もちろん、この課題は、狭く文系の学問の中のみの課題であるわけではない。いわゆる理系の、現今の科学技術の進展のなかにおいてこそ、「利他」が語られなければならない。現在の世界の、人文系の経済の問題は、同時に、理系の科学技術の問題に他ならない。
「利己的」な大量生産、大量廃棄の果てに、人類が存続可能な地球が壊滅してしまうという事態。
HPを見てみると、東工大の教育は、リベラルアーツ研究教育院において「教養」を学び、この「教養」を横糸に、縦糸たる理工系の各専門分野を生かしていくというしつらえとなっているという。
ここに、大学における学びの豊かさがある。こういう大学でなら、私も再び学んでみたいと思わせられる。
なお、國分功一郎氏は、現在は、東大に移られているが、引き続き「未来の人類研究センター」に関わっておられるということだろうか。
【臨床哲学と中動態】
さて、伊藤氏は、第一章で、哲学者鷲田清一氏を引いて、次のように述べる。
「哲学者の鷲田清一は、患者の話をただ聞くだけで、解釈を行わない治療法を例にあげて、ケアというのは、「なんのために?」という問いが失効するところでなされるものだ、と主張しています。他者を意味の外につれだして、目的も必要もないところで、ただ相手を「享ける」ことがケアなのだ、と言うのです。」(58ページ)
このあと、鷲田氏の『「聴く」ことの力』からの引用を記す。
これは、鷲田氏の唱える「臨床哲学」のことであり、さらに、当事者研究やオープンダイアローグにも通じていくところである。
第二章で、中島氏は、
「ただ心臓が動いていることとか、免疫細胞の働きとか、私たちの意思に還元されないものによってこそ、世界の大半のものが動いている。そしてその力を人間はもっとコントロールできる、あるいは、その力を認知できるという発想が強かった。けれども、そんなものをはるかに超えたところでいろいろなものが動いていること、その大きな力自体を私たちが直視することから解体されていく世界があるのではないか。そこにあらわれて物こそ「利他」としか名づけようのないものではないでしょうか。」(97ページ)
ここは、國分氏の中動態の論に通じるところである。もちろん、上の第一章の鷲田氏についての引用も中動態に通じていくものである。
第五章で、磯崎憲一郎氏が、戦後第三の新人といわれた小説家たちのうちのひとり、小島信夫を取り上げている。私は、これまで読む機会に恵まれてこなかったが、ぜひ、読んでみたいと思わされた。
【利己と利他のメビウスの輪】
中島岳志氏は、「おわりに-利他が宿る構造」で下記のように記す。
「「利他」の反対語は「利己」ですが、このふたつは常に対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっています。利他的な行為には、時に「いい人間だと思われたい」とか「社会的な評価を得たい」といった利己心が含まれています。利他的になろうとすることが利己的であるという逆説が、利他/利己をめぐるメビウスの輪です。
そんな利己的な利他は、自己の善意の押しつけになってしまい、かえって相手を困らせてしまうことがあります。」(210ページ)
「利他」の「利」である。どうしても「功利主義」的な意味合いが拭いきれない。「利己」に対するアンチテーゼとしての「利他」を立てるわけであるが、そこを超えた別の境地が目指されるべきなのではあろう。しかし、現今の「利己主義」最優先と見えてしまう世の中に対する問題提起として、あえて「利他」を唱える意義は大きなものがあるというべきかもしれない。
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