自由への道第二部猶予の前半。
フランス語の《sursis》は、「延期」、「猶予期間」、「停止」を意味する言葉だという。第一部の「分別ざかり」に引き続く第二部。
第一部と登場人物は繋がり、時系列的には、それに引き続く時期ではあるが、小説としての趣はずいぶんと違う。モンタージュの手法というのだろうか、これは。
読んでいると、段落の途中から別の場所の別の登場人物の話になる。いくつだろう、五つとか六つのプロットが、いつのまにか交代している。はじめは、さて、この文章は、誰のことか、この名前はどんな人物だったか、など脈絡を把握しようと少し努力したが、すぐあきらめた。明確に誰のことなのか分からなくともそんなに支障がないとも思われた。
この第三分冊は、猶予のはじめの二つの章、九月二十三日金曜日と九月二十四日木曜日。(第四分冊は第二部猶予の後半、九月二十五日日曜日から三十日金曜日までの六つの章となる。)第二次世界大戦の始まる前夜、一九三八年のエピソードである。第一部分別ざかりはその三か月前のことであるという。その二日間の、フランスをはじめとしたヨーロッパの様々な場所での様々な出来事が、とぎれとぎれに、場合によってはすこし長く、場合によってはごく短く描かれる。その間、時間は、ひとしく流れていくものと描かれているようだ。同じ一つの時間軸のなかで、いくつかの場所が交代しながら描かれていく。
これが映像であれば、そのシーンがどの場所のどの人物のエピソードなのかは一目瞭然となる。映像は、情報量が豊かだ。必然的に背景や服装や表情が描かれてしまう。ところが、文字は、そこが伝わらない。情景のいちいちで、背景や服装を描き直すわけにはいかない。いや、描いてもいいのだが、それでは冗長になりすぎて、描き続けることが困難になりすぎる。(そういう冗長さをこそ描く小説もあるのだが。)
この分冊では、この二日間の(「猶予」全体としては八日間の)ヨーロッパ全体の緊迫した状況をこそ描いている。個別のシーンの独自性に重点があるわけではない。全体の緊迫感が、個別のシーンにも貫徹している様をこそ描こうとしている。
だから、読んでいて、いちいちこの文言がどの場所のどの人物のことなのかということを、あまり厳密に意識する必要はない、ということになる、というふうに思ったわけだ。
そして、それは、そんなに誤った読み方ではない、と思う。
しかし、それは、宙づりにされたまま我慢して読み続けるということだ。普通の読者は恐らく我慢しきれない。だから、これは決して通俗的な小説ではありえない。とても実験的な小説だ。
作者はサルトルであるから、この小説は「自由とは何か」を追求した哲学的小説であるわけだが、言葉の前衛性を表現しようとした実験小説であることも間違いない。
最後の方では、段落ですらなく、ひとつの文章の中で、シーンの交代が行われる。「。」なしに、「、」だけで、全く別の場所の別の人物の描写に移り変わる。
さて、哲学的である、ということは末尾の解説にあるとおり、次のようなことだ。
「サルトルはこの小説を、哲学的主著『存在と無』と並行して書いていたが、両者の間には多くの共通項が見られる。その根幹にあるのは、ハイデガーの影響を受けてサルトルが構築した、人間に関する新たなヴィジョンである。それは一言で言えば、「人間は自らの未来である」ということである。」(訳者解説 389ページ)
「生きているかぎりは決して決定的な形ではその意味が決まらない、自由である人間は、固定された本質も持たないし、過去が現在や未来を一義的に決定することもない。むしろ未来こそが、現在をつくっていくのだ、と。」(390ページ)
小林秀雄が、人間は死んで初めて人間になる、みたいなことを書いている。生きているあいだは右往左往して定まらない、人間になる途上だ、みたいなこと。これは、似たようなことだな。
ところで、「徒歩7分」というNHKのBSのドラマが、奇妙に面白くてこのところ観ているのだが、そこで「私たちは未来に過去を見ているだけだ」、みたいなセリフが出てきた。それは、別の登場人物によって「いやそんなことはない」と否定されるのだが。「未来に未来を見てるのよ。」みたいな。
過去が未来をつくるのか。未来が現在をつくるのか。
これは、あたかも相反することを言っているようだが、実はそんなことはない。矛盾しているように見えるのは言葉尻の問題に過ぎない。言葉とはいつも比喩である。その比喩で言い当てようとするものを見当てなければならない。
さて、第3分冊、「九月二十三日 金曜日」の冒頭はこう始まる。
「ベルリン、十六時半、ロンドン、十五時半。仰々しい人気(ひとけ)のないホテルが、丘の上で、中にいるひとりの老人とともに退屈していた。アングレームで、マルセイユで、ヘントで、ドーヴァーで、人びとは考えていた、《何をしているのだろう。もう三時間以上になる、どうして彼は降りてこないのだろう。》」(13ページ)
そうか、ここから既に、複数の土地が、地名が書きあげられる。6つの土地。名前は書き出されず「ひとびと」とだけ表記されるが、それぞれのその土地にいる人物が登場し始める。この老人は、イギリスの首相チェンバレン、第2次世界大戦前夜、ヒトラーを待ち、引き延ばされた開戦の猶予の時間をつぶすように、いらいらと無為に過ごしている。それと同時に、それぞれの場所で登場人物たちは、いらいらと無為に時を過ごしているかのようだ。何らかの行動はしており、何ごとかは進展しているが、何ごとも成就しない、かのように、小説は描かれていく。
あたかも、ひとにはひとつの「自由」もない、かのように、小説は描かれていく。ここから先、この小説はどのように展開していくのだろうか?続きは、またしばらくおいてから、となる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます