社会学者大澤真幸と、憲法学者木村草太との、憲法をめぐる対談である。木村草太は、1980年生まれ、帯の写真を見ると、めがねのやさ男、なかなかのイケメンでもあるようだ。
冒頭、「憲法について考え、そして論ずることは、本来、とても楽しいことです。」と、大澤は書き出す。常識的には、法学はつまらないもの、しゃちこばったもの、と考えられるものだろう。しかし、そうではないのだと、大澤は語る。
「憲法とは何かが本当にわかってくると、憲法は、私たちをワクワクさせるもの、心躍らせるもので、自分たちの人生に魂を与える力をもっていることに気付きます。」(まえがき 3ページ)
そして、規律であり、決め事、決まり事であるとともに、私たちが何ものであるか、を宣言する文書でもあるのだという。
「憲法とは、国民が国家(政府)に対して課している命令のようなものであり、個人と国家の関係を規律する法律の一つです。…(中略)…憲法はそのような法律であることを通じて、他ならぬ私たち(日本人)が何者であるのか、私たちがどこから来てどこへ向かおうとしているのか、私たちに固有に属する物語を表現した文書でもあるのです。それだけではありません。憲法は最高の外交文書でもあります。つまり、憲法は、世界に向けてどのように行動するつもりなのか、世界の秩序と幸福に対して私たちがどのような使命を果たすつもりなのかを宣言する文書です。」(まえがき 4ページ)
憲法の、内向きと外向きの二重性。「この二重性、この両面のねじれた関係こそが、憲法をことのほか魅力あるものにしており…(中略)…夢を宿らせる」のだと。
〈ねじれた二重性が夢を宿らせる〉とは、分かりづらいこと、謎めいたことである。この謎解きが、この本である、と言える。
ただし、この謎解きは、そんなに簡単に明快な解答が与えられる類いの問いではない。この本を読み進めながら、ゆっくりと考えていく、その先に、解答がほのめいてくるという類いの謎。
どうだろう、このまえがきの部分を紹介するだけで、この本を読んでみたいと思ってもらえるのではないだろうか。
大澤真幸は、たぶん、3年ほど前に発見して、以来、目につけば買って読んでいる。なにか、深く引きつけられるものを持っている。信頼できると思わせる文章を書く。魅力ある書き手である。社会学者であり、哲学者と言ってもよく、現在この国において、大きな構想力を持つ思想家のひとりとも言うべき存在である。私より、2歳年下だ。
第2章「幻想の「国体」と日本国憲法」において、大澤は、江戸末期の水戸藩に由来する戦前の国体ということばが、戦後どうなったか、を語る。実は、戦争に負けても、国体ということばが全否定されたわけではなく、国内的には「国体は護持された」ことになっているのだという。しかし、現在は、いつのまにか「国体」は雲散霧消している。
「おそらく、国体の機能的等価物は、表面的には、いろんなものに拡散してしまっているのです。例えば戦後民主主義や憲法九条などがそれにあたります。でも、それでもやや役不足で、そういうものの全体の源泉は何かというと、アメリカなんですよ。アメリカとの関係において、われわれは新たにアイデンティティを得たんです。/しかし、さすがにそれを国体と名付けるわけにはいかない。対米従属こそ、われわれの命だとはさすがに言えないので、同盟ということで言葉を濁している。だから国体は人前に姿を出せないようなかたちで生き延びているわけです、生きてはいるんだけど、気がついたら、アメリカの服を着ていたと。まあ、国体は、アメリカに亡命したのですね。」(大澤 74ページ)
戦後、「国体」が、アメリカに亡命しているという。
一見すると「トンデモ話」めいた話だが、これは、深く納得させられる議論だ。われわれは幼い頃からアメリカアメリカばかり言って育ってきた。アメリカに憧れ、アメリカのような社会をつくろうとしてきた。
ロング・フォー(憧れの)アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ。
戦前の「天皇」の位置に、「アメリカ」が置かれている。置換されている。
では、その次は、どうなるのか。われわれはどうするべきなのか。
九条について、ヘラーというアメリカの高名な社会学者の言葉を引いてこう述べる。
「世界中がいずれ憲法九条をもつことになる。そうすると、日本人は世界のどの国よりも進んでいる状況なのに、遅れた国に追いつきたいと言っているようなおかしな状況になっている。このようにヘラーさんは言うわけです。/ということは、平和憲法をもつ日本人は、未来の他者がやるべきこと、彼らが生き延びようとするならばやるはずのことを、現在の他の人たちに先駆けてやろうとしていることになる。未来の他者たちは、平和に生き延びようとすれば、あるいは実際に生き延びられるとしたら、憲法九条的なものをもつことになるはずです。そのとき、彼らは過去を振り返り、日本がすでに同じような原則をもっていたことを知るでしょう。…(中略)…憲法九条を維持することで、私たちは結果的に、まだ生まれぬ他者の思いをすでに受け取っていることになる。/ならば、そのようなかたちで物語を新たにつくり直すことができるのではないか。」(大澤 79ページ)
「憲法九条は、アナクロニズムだと批判するひとがいます。しかし、それがアナクロニズム、時代錯誤だとするならば、時代遅れという意味でアナクロニズムなのではなく、逆に、時代を先取りしているという意味でアナクロニズムなのだと思う。」(大澤 268ページ)
アナクロニズムと批判する人びとは、九条が時代の先取りであるなどと言っても、それは絵に書いただけの理想論であり、机上の空論であると批判するだろう。
しかし、理想論は常に必要なものだ。
現在のわれわれが、九条を選びなおして、物語を新たにつくり直す。
大澤は、理想論を単なる空論にしないためには、あえて国民投票を行うべきではないかと提起する。
「改正する場合に国民投票が必要なのは言うまでもありませんが、改正しないという立場の人も、国民投票を求めるべきではないでしょうか。」(大澤 274ページ)
これは、護憲派にとっては大きな賭けとなる。しかし、頑迷なる護憲派でもなく、戦闘的な改憲派でもない、平和を希求する一般国民の分厚い層、みたいなことは信じてもいいのかもしれない。
おや、ここまで、大澤真幸のところしか引用していなかった。「最高の怜悧さと最高の優しさを一緒にしたらまさにこうなるという」「明晰な知性である」木村草太の語ったところも引用しておく。
「先ほど、日本国憲法は法学的にみれば「普通」の憲法なのに、改憲派にとっては「悪魔の経典」で、護憲派にとっては「神聖不可侵な経典」だという話をしましたが、憲法研究者ではない一般の人から見れば、憲法というのは国の象徴としての役割のほうが重要なのではないかと思います。それがどのように誕生したかという物語と不可分に結び付いている。だから、たとえ法律家の目から見て常識的な内容を定めた憲法典であったとしても、物語とうまく合致しないと、機能しないところがあるんじゃないでしょうか。」(木村 59ページ)
「ところが、日本国憲法の場合には、大多数の国民が共有できるような、よりどころとしての具体的な歴史的物語がない。」(木村 60ページ)
大多数の国民が共有できるような歴史的物語、それを紡ぎ出すこと。それが、冒頭に述べた問いへの解答、謎解きであろう。では、それは具体的には何なのだろうか。「憲法を選び直す」こと。まさにそのとおりだろう。
第一章の、天皇の、国民の総意に基づく統合の象徴たる地位についても、改めて選び直す、ということも必要なのかもしれない。責任ある「元首」とするのか、摩訶不思議な「象徴」の地位に留めるのか、の選択もしてみるとか。(もっとも良く考えてみると、「元首」と呼ぼうが呼ぶまいが、実体としてはそんなに変わらない。イギリスの国王も、日本の天皇も、現実の政治に責任を負わないことに変わりはない。主権者ではないのだから。しかし、日本が大統領が元首である国ではないということは、とても良きことのようにも、最近は、思えている。)
基本的人権と平和主義と国民主権の憲法の3つの原則を大切だと思う人と、これを変更しようとする人と、日本の人口のなかでの割合は、前者が圧倒的に多いと思うのだが、どうだろう。そこは信じていいのだろうと思う。一言一句たりとも変更しない、などという不自由なことでなく、時代の変遷のなかで姿を変えていく。原則を保持しつつ、その時代のひとが、その時代の夢を語ることを続けていく。そんなことで良いような気がする。
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