こないだあたり、若干、ネットを賑わせた白井聡氏である。思想史家、政治学者、京都精華大学講師とのこと。
このところ、ベルリンの壁崩壊、引き続くソヴィエト連邦の崩壊以降は、マルクス主義の評判は地に落ちたままであると言っていい。世は、主流派経済学の春である。自由主義、民主主義の価値観を共有する世界となった、みたいな話である。しかし、現今の世の中が、貧富の格差の増大があり、人並みの生活を維持するための激烈な競争があり、どうにも暮らしやすい世の中になっていないのではないか、という疑義が払拭されていない。お金の力による極端な経済自由主義が謳歌されている。新自由主義だとか、マネー資本主義だとか、お金の力のみが信奉され、人間の生存と生活がないがしろにされた社会と成り果ててしまったというべきなのかもしれない。
人間の生存と生活を、きちんと守っていくこと。
いうまでもなく、これがこの世で大切なことである。政治とは、人間の生存と生活を守ることに他ならない。そして、経済とは、経世済民の略語であり、エコノミーという英語も、各家庭に生活に必要な物資やサービスが滞りなく供給されることだとかいう話であるから、お金がお金を増殖する利潤追求のマネーゲームが経済だなどというのは、甚だしい誤解でしかない。ほんとうにこれは、どうにかしてほしいと思う。(ただし、誤解でしかないのに、放っておくと必然であるかのように利潤追求に向かってしまうという恐ろしい事態である。)
かといって、今更、だれもマルクス主義の復活だとか、ソ連や中国の共産党に学べとか言いだすわけがない。20世紀に起こった社会主義革命は、すべからく失敗した。人類の壮大な実験はすべて失敗に終わったわけである。
しかしまた、かといって、人類の生存と生活に必要な物資とサービスの供給を、自由な市場の流通に任せておけばよいというのも、どうも違っていたようである。
竹中平蔵氏が、人の世をもっと良くしようという正しい意味での経済学者を志したのだとしても、結果としては、市場経済に様々な修正や介入が不要であるとの論を堂々と主張するということにはなっていないはずである。
いま、われわれが目指すべきは、国家による適切な介入が行われる修正市場経済というか、修正資本主義というか、同時に、市民が自制しつつコントロールする広い意味での(空想をも含む)修正社会主義というか、そんなようなものなのではないだろうか。
題目だけの自由と民主ではなく、本来の、人間の自由と民主を取り戻す、そんな世の中と言えばいいのか。
そんな中で、ドイツの哲学者カール・マルクスの行論は、まさに学ぶべきものである、だろう。昔の意味合いでのマルクス主義者になるということではない。現今の経済学への批判のありようを学ぶということである。本来の経済の仕組みを学びなおすということである。それは実は、放っておくと陥ってしまう落とし穴について学ぶということである。
冒頭近く、白井氏は、こう書く。
「『資本論』のすごいところは、一方では国際経済、グローバルな資本主義の発展傾向というような最大限にスケールの大きい話に関わっていながら、他方で、きわめて身近な、自分の上司がなぜイヤな態度をとるのか、というような非常にミクロなことにも関わっているところです。そして、実はそれらがすべてつながっているのだということも見せてくれます。言い換えれば、『資本論』は、社会を内的に一貫したメカニズムを持った一つの機構として提示してくれるのです。ここが『資本論』のすごさなのです。」(3ページ)
「なぜ毎日窮屈な服を着てぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って会社に行かなければならないのでしょうか。『資本論』はこの疑問に答えてくれます。私たちが生活の中で直面する不条理や苦痛が、どんなメカニズムを通じて必然化されるのかを、『資本論』は鮮やかに示してくれます。」(4ページ)
資本論を学ぶのは、私たちが「生き延びるために」であり、その学びは、今日の不条理や苦痛が、「実はとてもバカバカしいことなのだ」と気づかせてくれるためなのだという。
「「このまま行けば日本人は滅びるのではないか」というレベルまで、働く人の心の健康状態がおかしくなってきている。あるいは今の急速な少子化現象も。その病状の1つに数えられるのかもしれません。」(21ページ)
最近の日本は、あるいは、世界は、どうにもおかしなことになっている、人間が人間らしく生きられないような世の中になっている、そういう思いは、広く共有されていると言って間違いないはずである。
自由な、自由すぎる市場のメカニズムに任せきりで、人間が幸せな生活を送れるようになる、などということはあり得ないのである。
市場のメカニズムに、どう制約を加えるか、ということが問題なのである。
「機械は人間を楽にしない!」という見出しで、白井氏はこんなことを書いている。
「一部の人は「AIが働いてくれるから、人はもう働かなくてもよくなる」と言っているようです。そうなったら確かに素晴らしいことでしょうが、資本主義の下では絶対にそうはならないでしょう。それは『資本論』を読めばわかることです。
これについてはすでに実績もあります。どんどん機械化が進んでいるのに、私たちの労働が時間の面では全然楽になっていないことがその証拠です。」(104ページ)
「…江戸時代と比べたら、私たちの時代はこれだけ巨大な生産力を手に入れているのだから、全般的にもっと楽ができていてもいいはずです。江戸市民が週の半分しか働かなかったというのなら、現在の東京都民は週に一日働くぐらいで十分なのではないか。しかし現実はまったく逆で、基本的に週五日、中にはもっと働いている人もたくさんいて、過労死が社会問題になるほど長時間労働がいまだに大きな問題となっています。」(105ページ)
「…現実にはテクノロジーが進歩しても、全然仕事は楽にはならない。労働時間も減らない。」(106ページ)
いったい、どうしてこんなことになってしまっているのか。制約のない自由奔放な資本主義のなせる技である。(自由奔放な個人のせい、では、決して、ない。)
少々学問的な言葉で言うと、次のようなことだろうか。
「機械装置は剰余価値の生産のための手段である」(107ページ)
「労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖に利用されうる労働時間に転化するための、もっとも確実な手段に一変する」(107ページ)
コンピューターを実例として挙げる。上で、AIと言ったことの繰り返しではある。
「いい例がコンピューターです。一九八〇年代ぐらいには、「コンピューターの導入によって、事務の効率、能率は驚異的に上がる」と言われていました。実際にそうなったと思います。そうやって能率が上がったら、みんなすることがなくなって、仕事が減って楽になるはず。そう思われていました。ところが現実はまったく逆でした。職場へのコンピューター導入以降、むしろ労働時間はどんどん長くなっていったのです。」(108ページ)
オートメーションの機械装置や、コンピュータ、最近の言い方ではAI、その活用によって向上した生産性、省ける手間、生み出された時間は、儲けを増やすこと、剰余価値の増大にのみ活用されてきた。そうではなく、労働者の余裕を生み出すために使うのでなくてはならない。放っておいてそうなるのではない。人為的に、労働者の時間、お金の余裕を生み出す方に活用するよう方向転換しなければならないのだ。
それでも、ある時代、戦後の高度成長期には、生産性の向上によって生み出された富を、一定程度、働く者の方へ分配する仕組みが働いてきた。しかし、今は、その分配を、資本の側が取り返そうとやっきになっていると、白井氏は言う。
「…デヴィッド・ハーヴェイが指摘したように、「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争なのだ」ということです。
古典的な意味での階級闘争は「下から上へ」であって、その内容は「資本家階級が独占してきた剰余価値の分配を労働者階級が要求する」というものでした。ところが新自由主義ではそのベクトルが逆になっている。」(223ページ)
大企業の経営者側は、このところ、労働側に与え過ぎた、それで、生産性が落ち込んで、国際競争に勝ち残る力を失ってしまったと考えたのだと。そして、取り返そうとした。そして、
「資本家階級はこの闘争に成功してきた」
われわれ一般の市井の民が、「階級闘争などは古い、時代遅れだ」などと自制している間に、大企業の経営側や、政治権力を握っている側は、かさにかかって闘いを仕掛けてきたのだという。
反転するためにはどうすればいいのか。ごくふつうの人々が、よき暮らしを得るためにはどうすればいいのか。
頭で考えた理屈だけで、取り返そうとしてもできない、という。考えるな、感じろ、と言う。例えば食を大切にする。度を越えて切り詰めて我慢することをしない。
「食にこだわることは、人生を楽しむこと、幸福ということ、人間性の回復にもつながっていきます。それこそ最も感性的な部分で、思想ではない。センス、「Don’t think.Feel!」の世界です。」(278ページ)
「「これ以上は耐えられない」という自分なりの限界を設けて、それ以下に「必要」を切り下げようとする圧力に対しては徹底的に闘う。そして闘争によって求める「必要」の度合いを上げていく。それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということです。」(278ページ)
「そのとき「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければならない。人間としての権利を主張しなければならない。」(279ページ)
最低限度を超える、ふつうに文化的な生活を、われわれは求めなくてはいけない、求めていいのだ、そこを自制し、遠慮してはいけない、ということだろう。
白井氏は、ここで文学を持ち出す。
「開高健に『日本三文オペラ』という作品があります。これは、戦後混乱期の大阪の「貧民窟」を舞台としていますが、その住人たちがいかに美食家であるかということが詳細に書かれています。彼らは、上品な人々が食べない食材を創意工夫を凝らして調理し、大いに楽しむのです。そこには豊かな食文化が花を咲かせていることが、力強く描かれます。」(287ページ)
「このような「貧者の美食」と対比すると現代の貧乏の悲惨さが浮かび上がります。毎日のようにコンビニ弁当、カップ麺、チェーン店の牛丼を食べるというのが、今日の貧困者の典型的な貧しい食生活の有様でしょう。これらの食べ物は、資本主義生産様式によってきわめて効率的に生産され流通しているものです。七〇年前のまだ焼け野原だった日本で、貧民は今よりも明らかに豊かな食生活を享受していたという事実をどう受け止めるべきでしょうか。」(281ページ)
文学は、大切である。このあたりの氏の行論は、見事と言っていい。
「哲学者の國分功一郎氏が『暇と退屈の倫理学』という著書の中で、ファストフードとは何かについて論じています。いわく、ファストフードとは単に早く食べられるものなのではなく、味が単調なのでゆっくり味わう必要がないという意味で「ファスト」なのだ、と。」(281ページ)
文化は大切である。文学は大切である。もちろん、哲学も大切である。われわれが健康で文化的な生活をおくるというとき、このあたりはとても大切なことである。
少し前後するが、ロシア文学に触れた章がある。
「一九世紀ロシア文学は、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリといった今日でも大変人気のある作家たちを輩出しました。世界文学の頂点の一つと言えるでしょう。
…私なりに考えると、この時代のロシアが、まさに封建社会から資本制社会へと移り変わる、移行の時期にあったからではないかと感じます。
急激な変化に対して社会は、いわば痙攣的な反応を示した。旧来の常識に則った人間性が試練にかけられ、そして崩れていった。ドストエフスキーの小説を読むと、登場人物たちはほとんど病気のような人ばかりです。何らかの意味で狂っている人しか出てこない。それはロシア社会が痙攣する時代の人間のありさまを、ドストエフスキーが鋭く捉えた結果と言えます。」(197ページ)
私たちがより豊かで人間的な生活をおくるために、文学が役に立つということ。文学が必要であること。経済を語り、そこに文学を必要不可欠のものとして語る白井氏の行論は、非常に優れたものである、と私は思う。
で、こないだのユーミンの件であるが、これはいかにもまずい。失言であった。
ベストセラーを書き得た公人としては、もっと慎重な発言を行うべきであった。生な感性を、充分な吟味を経ずに表出してしまった。現政権の失政に対して戦闘モードに入っていたからと言って許される発言ではないだろう。いや、むしろ、戦闘モードに入っているとすれば、なおさらに慎重さが求められた。
ユーミンは、古くからの自分のファンが、たまたま総理大臣夫婦となってお近づきの機会があったとなれば、そちらからも相当に尊重されるだろうし、嫌な気がしないわけで、良き友人となるということは当然のことだし、辞めたとなれば、悪口は言わず、ご慰労のひとことも挨拶したくなる。友人、知人に対し、慰労の言葉、感謝の言葉を述べるのは、世に生きる一般人として常識である。
しかし、白井氏も、こちらも古くからのファンとして、期待値が高いわけで、がっかりしたとは言いたくなるのだろう。
ユーミンは、なんと言っても、この国の今の世を作った文化的な偉人のひとりである。私も、愛聴し、尊敬している。この世の価値観のある部分は、ユーミンによって形作られたと言って過言でないし、大きな部分を共有しているはずという思いもある。
白井氏も、そういう部分の期待を膨らませ過ぎた結果の発言であったに違いない。
しかし、いかにも言い過ぎである。反省、陳謝すべきである。
白井氏も、自分で思っている以上に公人なのだと思う。
油断がありすぎた。もっと慎重に諸条件を勘案すべきであった。
だからといって、この著作の長所が失われるわけではないと思う。読んで学んでしかるべき書物である。
今の日本の政治権力の中枢に座ってしまった人間以外は、読んで置くべき書物といって間違いはない。
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