ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

村上春樹・柴田元幸 翻訳夜話2 サリンジャー戦記 文春新書

2017-04-03 00:48:57 | エッセイ

 続けて、似たような本。2003年、平成15年初版だから、すでに14年前の本だ。

 村上春樹は、1949年生まれ、柴田元幸は、1954年生まれ。私は1956年生まれなので、それぞれ7歳上、2歳上。刊行当時は、私は46歳、柴田氏は48歳、村上氏は53歳か。

 考えてみると、村上春樹は、当初は、さらっと軽く、独特の洒脱な文体、というイメージだった。

 書棚をみると2001年発行の『村上ラジオ』があった。

 私は、村上の小説はほとんど読んでいるし、翻訳小説もそこそこ読んでいるが、エッセイは、必ずしも追っかけていない。ときおり、雑誌で見かけて読んだような記憶もあるが、必ずしも本の形で買ってはいない。

 とは言いつつ、もういちど奥の本棚をざっと見てきたら、エッセイ系は5冊ほどはあるようだ。

 それはそれとして、『村上ラジオ』は、雑誌アンアンに連載した短いエッセイを集めたものとのことだ。

 冒頭は、「スーツの話」。

 

「このあいだクローゼットの服を整理していたら、スーツを5着も所有していることが判明した。」(10ページ)

 

「どうしてだろう、と考えているうちにはっと思いだしたんだけど(すっかり忘れていた)、40歳になったときに「そうだ、もう若くないのだしそろそろまっとうな格好をして、まっとうな大人の生活をしよう」と決心したんだよね。」(10ページ)

 

「でも日本に帰ったら。あっという間にもとのチノパンとスニーカーの生活に戻って、スーツとかネクタイとか革靴のことなんかすっかり忘れちまっていた。困ったもんだ。」(11ページ)

 

 まことに軽妙洒脱である。村上春樹っぽい。そういえば「まっとうな」というのも、とても村上らしい言葉づかいだな。シンプルに「まっとう」、つまり、正当で妥当で穏当で普通だというふうには読めなくて、どこか、そういう「まっとうさ」を斜に構えて見ているというような。そういえば、村上流の「シンプル」というのも、単純にシンプルと言いきれず、なにか、不純なものを混じえている、というか、そうそう、私はシンプルでないものも十分に知っているのだが、そういう不純なものも知りつくした境地から、あえて、シンプルだとのたまわっているのだぞ、みたいな、ただし、それをマウンティングのように自分を高めて読み手を威嚇するためにやっているのではなくて、書いている文章に、「ずれ」のようなものを導入して、軽みを生むために、どこかひょうひょうと微笑を誘うためにやっているみたいな感じというか。

 ちなみに、スーツをまとめて買ったのは、イタリアで、とのこと。イタリアは、すべて外観で判断される国だとか書いている。着ているもので、レストランの案内される席が全然違うのだとか。やれやれ。(おっと、やれやれ、などと書いていしまった。)

 ところが、この『サリンジャー戦記』は、語り口がずいぶんと落ち着いた、という印象を受けた。重厚である、とすら言いたいような落ち着きぶりである。軽妙洒脱なずれ、などには頼らない、というような。まさにシンプルにシンプルな書きぶり、というか。

 

「僕は六〇年代の半ばに高校生だったんだけど、当時『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読むことはひとつの通過儀礼みたいなものでしたよね。」(村上 17ページ)

 

 対談であるから、語り言葉であるが、落ち着き払った印象である。

 しかし、「村上ラジオ」は2001年だから、「サリンジャー戦記」とは2年しか違わない。

 「村上ラジオ」は、雑誌アンアンを媒体に、まさしく、どこかでくすりと微笑できるような軽妙洒脱なエッセイを、と求められて書いたものに相違ない。「サリンジャー戦記」のほうは、そういう演出を求められていない場であるということなのだろう。たぶん、この時期が一種の端境期で、こののちは、落ち着いた文体に収れんしていくということになるのではないか。と、あくまでこれは仮説であって、実際の文章の発表順に追って検証すべきものであることは言うまでもない。

 

「翻訳というのは、僕にとってはとても大きな意味をもつ仕事だし、翻訳作業から多くの大事なものごとを学んできた。奥の深い、喜びに満ちた仕事である。とくにこの『キャッチャー』を翻訳することは、純粋な悦楽以外のなにものでもなかった。そしてもちろん、僕はこの小説から多くの大事なことを学んだ。僕の『キャッチャー』の翻訳の中から(もちろんそれが完璧な翻訳でないことは承知のうえで)、そのような喜びと手応えをいくらかなりとも感じ取っていただければとは思う。」(村上 7ページ)

 

 と、まあ、そういうことで、この対談は、村上氏の喜びと手応えを、充分に感じとれる書物となっている。

 なぜ、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を、自分で翻訳してみようと思ったのか、柴田氏が問うている個所がある。

 

「(柴田) 村上さんが今これを、既に訳があるにもかかわらず、ご自分でまた訳し直したいというふうに思われた、そこはどういう過程があるんですか。

 (村上) やはりそれは、自分の中に根強く残っている、僕にとっての『キャッチャー』という小説の存在感みたいなものを。このへんで一度徹底的に文章的に洗い直してみたいという気持ちがあったからじゃないかな。自分なりに再評価、再検証してみようみたいなところです。

 あと、僕に『キャッチャー』を翻訳してほしいって希望する人が、まわりにずいぶん多かったのですよ。友だちとか、編集者とか。僕の訳す『キャッチャー』をどうしても読んでみたいと。一般読者からもそういうメールみたいなものはけっこう来ました。」(21ページ)

 

 一般読者の要望も大きかったようだ。確かに、村上春樹を読み始めた時、『ライ麦畑でつかまえて』をどこか思いだしたことは確かだったような気がする。私も、村上訳が出たと知って、これは読まねば、と思ったようにも記憶する。

 ところで、この本には、なぜ『戦記』と題されているかの明示された説明は一切出てこない。まえがき、あとがきを見てもない。

 村上氏と柴田氏は、この翻訳においても、これまでのものと同様、一種の共同作業として取り組まれている。柴田氏は、翻訳のチェック役。アメリカ文学、翻訳の専門家として、意味の確認、校閲訳を務められている。一緒に仕事をして、ともに困難を乗り越えてきた同志である。同じ釜の飯を喰った仲間。

 その同志が、今回、サリンジャーの『キャッチャー』という偉大な、名の知れた、広く読まれた作家の作品、先行する野崎孝による優れた翻訳があったにもかかわらず、あえて困難に、一緒に挑んだというわけである。

 今回の対談は、その挑戦の記録である。

 私は、『戦記』という表現は分かったような気がした。村上春樹が、この書物を『戦記』と名付けたわけは、深く理解できたように思う。

 このふたりの同志による対談は、かゆい所に手の届くような、奥の深いものになっていることも間違いない。


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