中井久夫というひとには、もっと若いころに出会うべきだったのだろうと思う。
現代詩手帖などでもこの名前は見かけることがあって、阪神淡路の大震災のときには精神科医としてどこか記憶にあって、でも、その名前が、明確に同一人物として認識されていたわけでもない。「中」の字のつく他の詩人と混同していたところもあるかもしれない。
このところは、恐らく、齊藤環の著作のなかで名前を目にして、読むべき著作家として記憶に留まったのだと思う。
さて、その中井久夫は、精神科医にして、フランスの詩人ヴァレリーの翻訳家、文人、恐るべき教養家である。
この本の冒頭は、「中井久夫の臨床と翻訳」と題する松浦寿輝と齊藤環の対談となっている。
松浦寿輝は、詩人、小説家、フランス文学者、表象文化論系の東京大学名誉教授であり、齊藤環は、精神科医、ラカン派の精神分析を学んだ著述家、「引きこもり」の専門家。筑波大の教授。
齊藤は、精神科医の先達としての中井久夫の特異な、というよりは、優れたありようを語る。
「…中井門下の精神療法志向の人々が、治療のクオリティを上げてくれたところはあります。一昨年刊行された『こころの科学 中井久夫の臨床作法』(日本評論社)を読むと中井久夫と彼のファンである精神科医たちが、いかに患者さんたちに対して人間的に配慮する治療を試みてきたかがよくわかりますし、私もそうした姿勢からすごく学ばせてもらいました。」(6ページ)
「精神療法や心のケア志向ではなく、治療とは薬を出すことだと割り切っている医師は、処方についてはほとんど触れないか、古い薬についてしか書いていない中井さんの論文は、読んでも臨床の役には立たないと思ってしまうのでしょう。/でも中井さんの論文は、脳ではなく身体に照準している分だけ普遍性が高い。…『精神科治療の覚書』などの統合失調症の治療論は今も十分に現役だと思います。」(7ページ)
「臨床家と理論家は両立しないというジンクスのようなものがありまして、…中井さんはほぼ唯一の例外として、臨床と理論が高度なレベルで両立し、しかも突出してしまっている。そういう稀有な方である…」(8ページ)
一方、松浦寿輝はミシェル・フーコーを引き合いに出して、「パレーシア」について語る。精神科医であるということを超えた中井の魅力を提示する、ということになるだろう。
「パレーシアとは、真理を述べることです。ある瞬間に立ち上がって。死の危険さえ賭しつつ、勇気をもって真実を口にするという、そういう身ぶりのことなんです。」(3ページ)
古代ギリシャにおいて真理を語る四つの形態として
「『預言を語る預言者』『知恵を語る賢者』『テクネーを語る教育者ないし技術者』、そして最後に『勇気をもってパレーシアを実践するパレーシアステース』」(4ページ)
があるという。
「預言者、賢者、教育者ないし技術者、そしてパレーシアステース。中井久夫とは、これら四つの様態すべてを一身に体現した稀有な書き手なのではないか。そういうイメージを僕は持っているんですよ。」(4ページ)
こういうところは、単なる精神科医であることを超えた中井の資質、中井の魅力ということになるが、しかし、それが、同時に精神科医としての中井の優れた資質ということにつながっているのだろう。
精神科医として後輩にあたる星野弘が、「精神科をたがやす――中井久夫が広げてきた道」のなかで、こんなことを書いている。
「中井久夫先生の患者さんは、病棟でも外来でも、明らかに他と雰囲気が違った。特に外来の場合、診察前の患者さんは、縮こまって硬くなってしまっている。言葉も少なく、下を向いていることも多い。でも、中井先生の患者さんは、リラックスしていて、受付の人と話をしていたり、ちょっとしたいたずらを仕掛けたり、結構自由にやっている。」(34ページ)
統合失調症の病理に関する業績、阪神淡路大震災の際の行動など、そして教養人であること、さらに、人間としての力というのか、魅力というのか、これから、中井久夫の著作は、ぜひとも、読み進めていきたいところである。
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