これは、エロでグロだが、一線は越えていない、というたぐいの小説だ。
この本の著者紹介には、1936年(昭和11年)生まれ、東大仏文出で、東大教養学部教授、学部長、副学長、その後、総長を務めた経歴と、著書の一部が記載されており、それは、まぎれもない事実であるとしても、しかし、それは、また、この人物のごく限られた一部を表わしているに過ぎないことは言うまでもない。
私が、最初に読んだこの人物の著作は、「フーコー・ドゥ―ルーズ・デリダ」の文庫本、河出書房から1995年5月8日に発行された版である。もとは、1978年2月、朝日出版社から刊行されたもの。つまり、私が大学の4年生、間もなく卒業のタイミングとなる時期。そのころから、その著作の存在は知っていたが、長く手がつかない状態であった。
不惑の年齢に達するころに、ようやく手に取ることができた。
フーコーやドゥ―ルーズやデリダの思想は歯が立たなかったが、この著作は、読み通すことができた。そして、著者の文体の虜にされた、のだったように思う。
それから、この著者の本は、相応に続けて読んできた。
この学者の専門は、フランス文学、19世紀写実小説、特に、ボヴァリー夫人のギュスターブ・フローベールということになる。しかし、登場当時、フランス現代思想の紹介者であり、日本における表象文化論なるジャンルの創始者というイメージを纏っていた。当時、最もおしゃれでスノッブなイケてる学問分野であった。
わたしも、表面的に随分と毒されたものである。表面的にというか、表層的に、というべきか。もっとも、毒されたとはいっても、深くは理解し得るものでなく、致命傷とまでならなかったのは、幸いなことであった。
そうそう、この人物は、映画評論家でもある。フランスへの「映画監督・小津安二郎」の紹介者。(最初の紹介者、ということではない。)
映画については、私は、つねづね「映画とワインについては語らない」と語っている通り、もっとも不得意な分野であるので、蓮實の毒の過半は免れえた、ということなのかもしれない。
しかし、実は、映画を知らずして、この小説の愉悦はほとんど感知することができないともいうべきところである。
「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日蔭の歩道を足早に遠ざかって行く和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。」(3ページ)
と、この小説は始まる。数行の後、青年は、振りかえりざまの女に見つかり、あでやかに微笑みかけられて、
「またまた辛気くさい歐州の活動写真でもご覧になっていたのかしら。出てきたばかりの活動小屋にかかっていたのはごく他愛もない聖林(ハリウッド)製の恋愛喜劇だったから、「辛気くさい歐州の活動写真」などではなかったのだが、…(略)…」(3ページ)
と、戦争期のハリウッドのラブ・コメディが何だったのか、フランスかどこかの静謐なシネマが何という作品なのか、著者は、明確にこの一点と定めているはずで、それが分かれば、この数行の文章の魅力は、また数倍となるべきところではあるのだが、残念ながら、私には、これ、と言い当てる力がない。
このあとも、すべて、どこかのなんとかいう映画のシーンを踏まえた叙述が続いていく。世の映画好きには、たまらない描写が続いているはずである。
私も、多少は、あの映画、この映画と思い浮かべることはできる。ただ、そのタイトルまでは、言い当てることはできない。2~3のごく有名なものは別として、ネットでキーワードを検索するなどすれば、この場でも、タイトルを突き止めることもできるはずだが、そんなことを始めるのは、それこそ、蓮實の術中にはまるということに他ならない。それに、私は、映画については語らない、主義なので。
映画と、もうひとつ忘れてならないのは小説である。
まずは、「ボヴァリー夫人」、主人公のボヴァリー夫人。そして、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」のココット(cocotto 高級娼婦)、オデット・ド・クレシー。谷崎純一郎や、三島由紀夫の登場人物もいそうだが、それらは、まあ、そのあたりか、というくらいで。
ああ、オデット・ド・クレシー、愛らしく美しいコケティッシュの原型。
(ちなみに、コケティッシュというのは、ココットの形容詞形で、高級娼婦のように魅力的な、という意味であるので、そこらのふつうの可愛い女の子に使ってはならない。)
「…細くて硬そうな右手の指で複雑な数字をダイヤルしたかと思うと、まるで爆撃機の伝声官のように電話本体を握りしめて口元にあてがい、おい、そこのお若けえの、お前さんの垢だらけの汚ったならしい耳の穴かっぴろげてよく聞くがいいと傳法肌の口調でいってのける。その言葉遣いのあからさまな変化には呆気にとられるしかなかったが、…(中略)…これはいったい、なんてざまなんすか。そんなことまでやってのけていいもんなんざあ、これっぽちもいった覚えはござんせんよ。ましてや、あたいの…」(26ページ)
(おっと、あぶない、この次の言葉はここでは引用不可、としよう。)
実は、先日、生まれて初めて寄席、という場所に足を踏み入れる機会があった。そこで落語も堪能させていただいたが、三遊亭小円歌の三味線漫談というものも聴くことができた。落語家三遊亭円歌の弟子であるというが、落語家ではない。
小股の切れ上がった、というのは、こういう女性を形容するためにあるのか、と勉強させていただいた次第である。
三味線と、唄と、踊り。きっぷのいい語り、抑えに抑えた泣き声でもあるかのような新内節の一節、和製ラップと称する「品川甚句」とか、アンコール代わりに、見事に片足上げたまま舞い続ける「かっぽれ」と、ほれぼれとする舞台であった。
この練達の日本の女芸人のわざを、怪しげな(恐らく)エセ貴族で、魅惑的な(恐らく)元高級娼婦の蓮っ葉な語りとを一緒にするわけにはいかないが、小説の文章を読みながら、その記憶に重ねることで、悦楽が倍加する、ということになるわけだ。
この小説の舞台は、太平洋戦争開戦のまさにその日のトーキョーである。もちろん、カタカナ表記などは出てこず、帝都、首都と語られるのみである。
戦争があり、肉体のなまな匂いもただようようなあからさまな戦闘場面があり、もちろんあからさまにエロティックな場面が続く。全12章すべてが、手を変え品を変えた性描写の連続であると言って過言でない。サド、マゾ、グロテスクなエロティズム。隠微な言い換え語や、ストレートな局部の名称。
蓮實重彦は、この小説の一章一章を、隠微な口元の微笑をもって途方もない悦楽に浸りながら書き進めたに違いない。わたしは、そう信じている。
そして、実際のところ、蓮實自身は、生身の肉体ではそういう悦楽を経験した事はないのだと思う。もちろん、戦闘も経験していない。映画を見て、小説を読んで、想像をたくましくしたのみであるのだと思う。すべては、フィクションである。蓮實の創作である。
徹底的にエロでグロで、ほとんどナンセンスであり、しかし、上品さの装いが表層を覆い尽くして、歓喜のままなめらかに読み通させる。
この本を読み進めながら、わたしも、蓮實の毒に浸されて愉悦の時を過ごした、ということにしておこう。
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