これは、はじめての書き下ろし詩集だという。普通、詩集は、書いてどこかに発表したものを後から集めて詩集にする。確かにそうだ。同人誌に参加していれば、まずは、その同人誌に発表して後に集めるというのがパターンとなる。私などもそうだ。注文を受ける詩人であれば、どこかの雑誌に依頼を受けて書くというのが初出というパターンにもなる。
しかし、中には、まず、詩集にするために書きためて詩集の形で発表するということもありえる。谷川俊太郎は、そういう形で書いたことはないのだということになる。
プロの書き手は、小説家の場合は、出版社の依頼を受けて、書き下ろしで書きあげるということは良く聞く形である。そういえば、詩の場合は、最初から稿料が発生する形での書き下ろし詩集というのはないのかもしれないな。自分で企画する書き下ろし詩集はいくらでもあるはずだが、出版社が企画する出版物としては珍しいのかもしれない。
現在、日本で唯一人、谷川俊太郎だからこそ企画しえた、ということかもしれない。
冒頭は「隙間」という詩である。
「チェーホフの短編集が
テラスの白木の卓上に載っている
そこになにやらうっすら漂っているもの
どうやら詩の霞らしい
妙な話だ
チェーホフは散文を書いているのに
山の麓の木立へ子どもたちが駆けて行く
私たちはこうして生きているのだ
心配事を抱えながら
束の間幸せになりながら
大きな物語の中に小さな物語が
入れ子になっているこの世
その隙間に詩は忍びこむ
日常の些事に紛れて」
(隙間 全文)
「詩に就いて」というタイトル通り、この詩集は、詩のかたちで書いた詩論であるという。なるほど、その通りの詩である。詩というものをものの見事に捉えている。
以下、こんな具合に、見事な詩が並んでいく。
「「私は何一つ言っていない
何も言いたいとは思わない
私はただ既知の言葉未知の言葉を
混ぜ合わせるだけだ
過去から途切れずに続いている言葉
まだ誰も気づいていない未来にひそむ言葉が
冥界のようなどこかで待っている
そんな言葉をまぐわいさせて生まれるのは
私が書いたとは思えないもの」
〈でもそれが詩ですよ〉と
誰が言うのか」
(まぐわい 全文)
これは、冒頭カギ括弧が二つ重なっている。ひとつは、いま、私が引用として付けたもの。もうひとつは、谷川自身が付けているもの。つまり、この冒頭9行までは誰かの台詞として書いているものだ。
私など、「おや、言葉は全て既知のもの、すでに誰かが語ったものでしかない。未知の言葉などひとつもありえない。もしあるとしても、それはただ組み合わせが違うだけのもの、既知の言葉の順列組み合わせを入れ替えただけのものに過ぎないはず。」とちゃちゃを入れたくなるが、そういう苦情にも、いやこれは登場人物の台詞です、と説明ができることになっている。「これまで使われたことのない順列組み合わせをこそ未知の言葉というのです。」と説明すればそれはまさしくその通りであるし。どちらにしても説明に困ることはない。
後もう一遍、「難問」という詩を引いておく。
「揺り籠が揺れるのはいい
風に木々が揺れるのも
船が波に揺れるのも
風鈴が揺れるのも
だが地面が揺れるのを
どう受け容れればいいのか
と 詩は問う
難問だ
ぶらんこに揺られて考えたが
答えがない」
(難問 全文)
あとは、あとがきを引いておきたいが、それも全文書き写すのでは芸がないから、詩集を読んでのお楽しみ、としておきたい。
あ、そうだ、谷川俊太郎は論理の詩人で、重ねた論理の隙間を詩にするひとだということは言えると思う。哲学者谷川徹三の息子である。そして、そういうところに私は大きく影響を受けている。
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