須藤文音さんが、気仙沼高校の生徒だった、というよりも、恐らく統合前の鼎ヶ浦高校の生徒だった時の作品。県の高等学校の文芸作品コンクールの優秀賞をとっている。
3年生の時に、男子校と統合して、新しい気仙沼高校となった、その最初の生徒会誌で、まあ、内輪の話ではあるが、息子が、「久遠天翔(くおんてんしょう)」という名前を名付けたということで、先日、高校からもらって来ていた。(つまり、息子は、文音さんの統合後の同級生で、この雑誌は探せば、家のどこかには1冊あるはずだが。)その謂れを、息子自身が書いたものが載っているということだったが、この第1号には、載っていなかった。どうやら2号以降に、掲載され始めたらしい。(別にもらった最新号には、確かに載っていた。)
で、文音さんのこの小説は、当時、読んでいる。賞をとっていることはすでに知っていたし、この生徒会誌に掲載される前に、本人か、あるいは、お父さんの勉さんから入手して読んだ。
文音さんは、気仙沼演劇塾うを座に、最初の頃から在籍し、私と妻は、創設のメンバーであり、息子は、その成り行きで自然に創設時からの塾生であった。勉さんも、保護者として、舞台の裏方として、支援・運営の良きメンバーであった。
私とは同い年で、学校は一緒になったことはなかったが、話が合った。明るく優しい人柄で、誰にでも好かれた。公演の打ち上げの席には、いつも彼の笑い顔があった。
入賞は恐らく地元紙で報道されたのだと思う。ぜひ、読んでみたいと思った。勉さんに連絡して入手し、読ませてもらった。
一読、その透明な世界の描写に強くうたれた。優れた作品だった。
今回、この生徒会誌を手に入れ、彼女の名前を発見し、ひさしぶりに読んでみようと思った。
「先生は以前から読書が好きだった。
まだ読んでいないものは一部のずれもなく同じ向きに揃えて枕元に重ね、読み終わったものは興味を失ったかのように畳に放り投げていく。」
と、この小説は書きだされる。
静謐な透明な空気と、なにか狂おしい感覚。
次の行に何が書かれていくのか。ぐいと引きずり込まれる。
「私はその本を拾うのも忘れて、先生の視線の先を追った。
真っ青な海。
これを見るために先生はこの島へ帰ってきたという。
(中略)
美しい島だった。
(中略)
ああ、先生はここを選んだのだ。」
病気の先生は、生まれ故郷の島に帰って来る。語り手のたぶん教え子だった女性とともに。そして、たぶん、ここで息絶える。
その日、歩くと砂の鳴る浜、徒歩で、沢道をしばらく下って行かないとたどり付けない浜で、先生は、着衣のまま海水に入っていく。ばしゃばしゃと水音を立てて遊んでいるが、やがて仰向きになって水に浮かぶ。
「あ、あ、先生は流されてしまいたいのだ。
自分の中に澱む不純物を取り除いて、すべて洗って流してしまいたいのだ。
そう、思った。」
家に戻って、医師の診察を受け、点滴を打たれた先生は、語り手に問いかける。
「君は、と先生は海を見たまま私に尋ねてきた。
『海の中にはなにがあると思う?』
『海の中ですか?』
私はとっさの質問の意味が理解できなかったが、それでも必死に答えを巡らせる。
『塩分と水分、魚、ごみ、排水…』
私が思いつくだけ挙げると、先生は静かに目を瞑る。
『わかったんだ。今日、海に入って』
思い出すように、ゆっくりと、先生は答えた。
『命と、死んだ命だよ。』
結局僕は海に行けるみたいだ、と笑いながら。」
先生は、まだ逝かない。しかし「じきに逝くだろう。」
「先生の腕から伸びる点滴のチューブの先に、先生の愛した海が繋がって、小さく波紋をたてている。
波ひとつなく、穏やかに。
そんな光景を私は望んでいた。」
と、書いて、この小説は閉じる。
優れた文学は、時に現実を先取りする。
時に残酷に、先取りしてしまう。
もう十年も前に書かれたこの小説から年を経て、2011年3月11日に、大島で生まれ、気仙沼で暮らした須藤勉さんは、…
(「先生の海」は荒蝦夷発行の『仙台学』第2号にも掲載されているとのことで、入手可能なはず。)
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