ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

郡司ペギオ幸夫 やってくる 医学書院

2021-02-27 21:24:53 | エッセイ
 医学書院の〈シリーズケアをひらく〉の一冊。
 著者は、1959年生まれ、東北大学理学部から大学院博士課程を出て、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授とのこと。
 正直に言うと、この本は,一読して一体何のことを書いているのか掴みきれなかった。
 いや、書いている中身は大変面白く,確かにその通りであると思わされたのではある。
 文脈がつかめない、ということだろう。諸学問の布置において、どういう場所に位置づけられるのかが、うまくつかめない。一種の哲学、一種の心理学のようでもあり、生物学とか人類学とか脳科学のようでもあり、精神面に特化した人間工学とでもいうようなものなのか。
 しかし、これはなにかとても大切なことに違いない、と感じられる。

「頭で考えるのではなく、なんだかハッと感じでわかる「わかり方」を、私は天然知能と呼んでいます。それは人工知能との対比で明らかとなりますが、人工知能というのは機械の知性に限ったものではありません。私は、むしろ現代人の多くが人工知能化しているとさえ思っています。
 …人工知能は、何か見せられたり聞かされると、〈問題〉が与えられたと考えます。それに対して判断することは,その問題に対して〈解答〉することだと人工知能は考えます。まさに機械的ですが,現代人はけっこうそうしていますね。」〈34ページ〉

 人工知能と言えば、コンピュータ、特に最近は、AIという言葉が流行りであるが、artificial intelligenceの略、訳せばまさに〈人工知能〉である。コンピュータの発明以来、技術は驚くように進歩して、もうすぐ人工知能が人間を超えるなどという言説がまかり通っている案配だ。
 しかし、一方では、人工知能は、永遠に人間を超えることはできないという議論もまた根強い。
 原理的には単純でも大量にこなさなければならない計算については、人工知能のほうが、とっくの昔に自然人の能力を超えているわけだし、最近は、ビッグデータだとか、チェスだとか囲碁だとかのゲームも引き合いに出しながら、ますます人間を超えて発展し続けているようである。
 ところで、一方、人間存在自体も、技術的生物学の進展に伴い、生身の生殖行為無くして人工的に生み出されるなどというようなことも可能になってしまいそうである。コンピュータ制御で健康優良な受精卵を作成し、培養し、人間を制作する。人間そのものが人工的な製品に成り果てる。コンピュータが人間を製造する。子どもは子ども製造業の加工品となり、小売店で購入する商品となる。夫婦そろって、定評ある専門店を訪問し、カタログをめくって、望ましい人間像を選択し、仮払金半額を支払い、受精、培養を経て10か月後に店を再訪し、新生児を受け取り、残額を清算する。(あるいは在宅でパソコンから発注し、宅配で受け取る!)
 こんな、うすら寒い未来しか想像できなくなりそうで、なんとも末恐ろしいばかりである。
 この書物は、人類史がそんなディストピアに陥ることを避けるために有意義な議論を展開してくれる、ということにもなりそうだが、一方で、人工知能が複雑な人間の脳の働きをシミュレートしてますます進化発展していくための手段として機能するということもありそうな気がする。というか、AIがこれ以上進化発展するためには、この書物の主張をきっちりと学んで、アルゴリズムに取り込んでいくことが必須、ということなのだろうか。
 さて、上で、人工知能は与えられた問題に解答を与えるものであるという。

「解答って何でしょうか。もうこれ以上問題については考えなくていい、という状態です。」〈34ページ〉

「文脈を暗に固定しているからこそ,問題に対して解答が得られると,それ以上その問題について考えなくていい。」〈35ページ〉

 コンピュータは、問題が与えられれば、決まりきった演算の方法に拠って、正しい解答を導き出す。
これはよく考えればコンピュータのみでなく、ふつうの人間にとってもそうであると思い込まれているかもしれない。小学校入学以来、私たちも、数えきれないほど試験を受け、問題をあてがわれ、解答を搾りだしてきた。正解することもあれば、誤答となるときもあった。誤答すれば、それは間違いであると指摘され、正解を教えられた。実社会に出てからも、常に問題は与えられ続け、精一杯シンプルな解答を導き出そうとしてきた。
 郡司氏が語るように、自然人である私たちも、ほとんど人工知能化してきたわけである。
 しかし、郡司氏は、すぐに続けて次のように書く。

「逆にもし特定の文脈を外してしまえば,別の理解が得られる可能性もあるわけです。」〈35ページ〉

 これは、コンピュータには不得意なことに違いない。
 自然人は、しばしば問題から解答への直線的な流れに、あるいは、そもそも問題設定自体にどこか疑問を感じ、納得できない思いを抱えることがある。たしかにそんなときはある。
 文脈を外すとは、問題から解答に向かう一直線になんらかの力が働いて、ずれが生じることである。隙間、ギャップが生じることである。

「ずれ=スキマ=ギャップがあるからこそ考えます。なんか他にある、と。だがしかし考えてどうなるものでもない。でも、考えやきもきして、焦って、諦めて,ぼんやりしていると、突然、感じる。文脈が固定されていたときにはとうてい見つからなかったような何か、そのときには予想もしなかった何かが、「やってくる」のです。」〈38ページ〉

 何かが〈やってくる〉。ふむ。
 著名な作家が、真っ白な原稿用紙を目の前に腕組して徹夜して午前4時頃、天から何かが降ってくる、そこから原稿がすらすらと進む、みたいことはよく聞く話である。

「…突然外からやってきて、あなたに降りてきたのです。それは特定の文脈で想定される世界の外部にあったものです。」(38ページ)

「…人工知能は徹底して外部を排除する。天然知能は外部を感じる。この違いこそ重要なことです。」(39ページ)

 われわれも、合理的に過ぎる現代の風潮に流されることなく、もういちど不合理に身をさらすことが必要である、ということだろうか。
 郡司氏自身の人工知能に毒されたかのような状態、そこから脱却しようとするきっかけのようなものが描かれる。

「当時の私は、形からみた生物の進化について考えていました。イギリスの工学者であったジョン・メイナード=スミスという研究者が進化とゲーム理論の教科書を出版したばかりで、進化をゲーム理論で解き明かす風潮が大流行りでした。」(56ページ)

「社会的意味合いを「計算してはっきりさせてしまう」という理論は、私にとって新鮮でした。しかし同時に、生きていることの、確定的に理解しようとすると逃げていくような儚さが、この計算にはどこにもないという感じも持っていました。」(57ページ)

 私自身、若い頃は明晰判明知でもって、社会の仕組みを解明し、世の不条理を解決し、もってすべての人間が基本的人権を保持しつつ貧しさから解放され明るく楽しく芸術的に生きる世を作りたいと希望に燃えていたものである。社会に関心を持つ若者はすべからくそんな希望に燃えていた、はずである。問題を立ててストレートに解答を得ようとしていた。(いや、今だって、世の問題を解決する希望を捨て去ったわけではない。ただ、そう簡単ではないと気づいたのみである。)
 当時の人工知能的な郡司氏は、ハトとかタカとかで悩み、どちらでもないトンビに憧れた、という。

「ハト派やタカ派を、生物の手や足など異なる部位間の関係に置きかえ、形の進化を説明する。私は一方でそういうモデルを作りながら、それに抗して、お腹を丸出しにして飛んでいるトンビの自由さや暢気さ、その延長上にある自律性の意味を理解しようとしていました。私は自問自答を繰り返しながらも、理論的展開の見通しのなさに、宇宙から孤立してしまったような孤独感や寂しさをいつも感じていました。
 そういった不安感が、まったく異質な判断——〈感じる〉判断と〈認識する〉判断——を両立させるような緩さを生みだしたのだと思います。」(57ページ)

 実は、郡司氏は、東北大学で地質学や古生物学を学んだ方であって、生物の進化を専門に研究なさっていたということのようである。人工知能的な、問題があって直線的に解答があるという図式では、研究者として行き詰っていたということなのだろう。
 ところで、念のために言っておけば、上の引用の〈ハト派〉、(タカ派)は、比喩としての平和主義者、闘争主義者のこと(さらに言えば、その比喩表現を実際の生物の部位に当てはめようという、さらには、ひょっとすると前提として実際のハトやタカを観察してハト派、タカ派の言葉の成り立ちまで考察してしまうという、ある種、詩的な試み)であるのに対し、トンビは、まさに自然の上空を滑らかに飛び回る鳥のことである。まさに、一連の文章で議論が、つながっているのにずれているかのような案配である。
 後半に、アメリカのポップ音楽史上のビッグ・ネーム、裏マイケルと称されたプリンスがダサイという話が出てくる。

「ダサイ」は「田舎(だしゃ)い」から来たとも言われ、都市が人工物や論理的思考の象徴だとするなら、田舎はその外部の象徴です。まさに外部から単にやってくることがダサイことなのです。それは不用意なボケを意味します。」(162ページ)

 田舎の読み方は、ふつうは訓読みで〈いなか〉であり、音読みでは〈デンシャ〉であって〈ダシャ〉ではないはずだ。でも、どこかのスラングでそう読むところもあるのかもしれない。
 気仙沼あたりでは、〈ぜーごくせ〉という言葉があって、在郷臭い(ざいごうくさい)の訛りである。在郷とは、都市部から外れた郊外、村落地のことで、〈ぜーごくせ〉というのは、まさにダサイ、おしゃれでない、洗練されていない、カッコわるいということ。イナカくさいという言い方もあり、ダサイの語源が、田舎からきているというのは、まあ、そのとおりなのだろうと思う。
 プリンスが、ダサくてカッコワルイの典型だという。マイケル・ジャクソンはキレッキレのダンスでカッコよさの典型であるらしい。ここで留意すべきは、氏にとって、ダサカッコワルイというのはむしろ驚くほどに賞賛すべきことであるらしいことである。

「プリンスはどこから見ても「ダサカッコワルイ=アメイジング」です。」(170ページ)

 余談だが、プリンスとMJ(マイケル・ジャクソン)は同い年のようだ。裏とか表とか、なんのことだということになる。(プリンスの方が、MJよりも都会育ちのようでもある。)ムーン・ウォークで脚光を浴びた当時のMJは、確かにフレッシュで爽快にカッコよかったし、プリンスはどこか隠微で日向を避ける者の風情はあったかもしれない。しかし、その後、MJは、怪我や皮膚病で悩まされ、訴訟騒ぎもあり、脱黒人を念慮するみたいな誤解もあって、すっぱりと割り切れたカッコよさの代表とも言えなくなっていた感はある。もちろん、その音楽とダンスはワールドワイドに超一級品であることに間違いはない。(いま、ここは、プリンスの3枚組「EMANCIPATION」を聞きながら書いている。すごくカッコいい。ちなみに、私より2歳下の両名とも、今となっては既に亡くなって伝説と化しているわけである。)
 80年代にディスコでよくかかっていた「君の瞳に恋してる」(Can't Take My Eyes Off You)のボーイズ・タウン・ギャングもダサカッコワルイの例として挙げられる。いかにもいかがわしい音楽と、当時私には聞こえたが、映像を見ても確かにそんなかんじらしい。カバー曲であって、1967年のフランキー・バリの原曲はそんな感じはない。もっとさわやかである。1982年のいかがわしいディスコ・サウンドのほうが今はスタンダードなのだろう。

「「アップタウン・ファンク」のとりわけマーク・ロンソンや、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、ボニーMから、ボーイズ・タウン・ギャング、そしてもちろんプリンスに見出されるファンキーさとポップさの間にあるずれ=スキマ=ギャップは、それ自体が、大胆で高貴な天使なのです。」(177ページ)

 今となってみれば、MJこそ、そういう意味で大胆で高貴な天使へと生まれ変わったというべきだろうか。というようなことで、アメリカのブラック・ミュージックの系譜をたどる記述があるかと思えば、映像作品を取り上げる記述もある。

「映像作家クエイ兄弟によるストップモーションアニメ「ストリート・オブ・クロコダイル」の…世界は石膏と金属の支配する世界であり、石と機械の世界です。…ときおりハエの死骸が現れ、血塗られた内臓が出現します。…血や内臓は、…世界の彩りとして使われているにすぎません。…この無機的世界は、しかし私たち自身の生命それ自体だと思います。私たちは、生命や知性のメタファーに、むしろ大鰐通り(=ストリート・オブ・クロコダイル;引用者注)の風景を用いるべきです。いわゆる生命的なものから遠く離れて見える大鰐通りの住人たち。そこにこそ外部から生命がやってくる。」(179ページ)

「断絶の間をつなぐものは何なのでしょうか。…有機的連続体ではなく、「切ることそれ自体」なのです。切ることが、接続を促していくのです。」(181ページ)

 〈切ることが接続を促す〉、〈無機的なものこそ生命〉なのだという。一般にいうデジタルとアナログの対比とは別のものであるようだ。上のクエイ兄弟のアニメで語っていることは、問題から解答へスムーズに流れる人工知能の表面に有機的な人工皮膜のようなものを覆ってアナログに見せるというような小細工は、やっても意味がないということのように読める。滑らかに問題解決に至る人工知能とは別の、スキマ、ズレのある(一見デジタルにも見える)天然知能をこそ追求しようということなのだろう。

「本書の目的は、何でも比較可能で数値化可能とする、等質化を前提とした思想、すなわち「人工知能の思想」に対抗し、外部から「やってくる」ことを全面展開することです。」(219ページ)

 外部からやってくる天然知能の思想は数値化されないのだから、コンピュータで扱うことは、原理的に、できないということになるのだろう。この書物は、コンピュータが人間を超えるなどという妄想は、決して実現することがない、と宣命しているのだと思う。
 そして、この思想は、

「…セイックラとアーンキルの唱える「開かれた対話」」いわゆるオープンダイアローグや、浦川べてるの家の向井谷地行良氏の対話術の本質かと思います。」(285ページ)

 ということである。これは、國分功一郎氏の中動態の話にも通じるものであろう。さらにいえば、中村雄二郎の〈臨床の知〉、鷲田清一の〈臨床哲学〉と、私が慣れ親しんできた哲学の系譜に連なるものである。遡れば、私の理解する意味での実存主義であり、経験論ということにもなる。
 ところで、突然現れる、この一文は、医学書院の編集者白石正明氏のすすめで挿入したのでは、と勘繰りたくなるところもあるが、確かに言い得ているところではある。
 さて、〈徹底した空となること〉、〈外部に対して徹底的に受動的〉になること、そのときに、

「これらはみな、「やってくる」のです。」(287ページ)

 なるほど。
 最後は、宗教めいた話にもなるが、それは決して蒙昧としての宗教ではない。原宗教的なという言い方もできるかもしれないし、原哲学的なということでもあり、明晰判明知を徹底していくときに必然的にやってくる根源的な人間の知の形ということなのかもしれない。



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