臨床心理士、公認心理師にして、十文字学園大学准教授であるが、この大学は退職されたらしい。ただ、どこの大学ともかかわりがなくなるというわけでもなさそうだ。白金高輪カウンセリングルームを主宰なさっている。いつか、氏のカウンセリングというものを受けてみたいものだ。
東畑氏の著書は、2019年11月に読んだ『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院2019)以来となる。その時、私は「衝撃的な本だ」と書いている。どこが衝撃的だったのかは、そちらを読んでほしい。末尾にリンクを置いておく。
【大きな物語と小さな物語】
さて、冒頭は「ちょっと長めの序文」として、「心はどこへ消えた?―大きすぎる物語と小さすぎる物語」と題される。
「この本は2020年5月から2021年4月にかけて、週刊文春で連載した「心はつらいよ」をまとめたものだ。」(7ページ)
「2020年の私たちは大きすぎる物語に振り回されることになった。」(12ページ)
ここでの大きすぎる物語とは、全人類を巻き込む新型コロナ・ウィルスによる感染拡大のことであるが、2022年4月の今の時期になってみると、そこにさらにいささか時代錯誤としか思えない侵略戦争が始められ、なおさらに大きな物語に振り回される事態となってしまっている。
「大きすぎる物語には有無を言わせないだけの説得力がある。
だけど、そのとき、小さな物語たちが吹き飛ばされてしまったのもまた事実だ。…小さな物語たち…こそが私たちの人生の単位だったはずなのに。」(13ページ)
圧倒的な抗い得ない厄災によって、私たちの小さな心の物語は、吹き飛ばされてしまった。(ヨーロッパのウクライナにおいて、まさしく多くの小さな物語が吹き飛ばされた。)(もう一点、念のために言っておけば、上記の「説得力」とは、道義的に納得して説得されてしまうと言うことでは全くなくて、暴力的で抗うことができないという部分で説得されてしまうという事態でしかない。)
【心とは何か】
東畑氏は、あらためて、
「心とは何か。」(14ページ)
と言う問いを立てる。
「心とはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。それはあらゆるものを否定した後にそれでも残されるものなのだ。心は旅のはじまりではなく、終わりに見つかる。」(17ページ)
そうか、心は旅の終わりに、ようやく見つかる、はかないものだと。
「…小さな物語こそが、心の場所になる。物事をシンプルに割り切ろうとする大きな物語を否定したところに心が現れるのだ。
そうじゃないか。」(17ページ)
まあ、心というものは、人間とは別のものとしてあるわけではなく、人間そのものである。人間を、体と心のふたつの側面に分けて考えているだけのことである。それぞれの人間は儚いものであり、個別の小さな生を生きるものである。それぞれの小さな生に寄り添うとき、心が見えてくる。それぞれの心が存在することが発見される。
「私たちは複雑な話を、複雑なままに聞き続けたときに、その人の心を感じる。あるいは複雑な事情を複雑なままに理解してもらえたときに、心を理解されたと感じる。表だけでなく、裏まで含めてわかってもらうと、心をわかってもらえたと思える。」(17ページ)
しかし、最近、人々は心を見失ってしまったように見える。心など、誰も関心を持っていないかのようだ。大きな物語によって、心は吹き飛ばされてしまった。
【物の豊かさと見失われた心】
東畑氏は、ついこないだの過去を振り返る。
「かって、つまり1999年以前には、心はキラキラと輝いていた。
河合隼雄という臨床心理学者は「物は豊かになったが、心はどうか?」と問いかけて、心に裏があり、深層があることを魅力的に語っていた。それが多くの人の心を打った。」(19ページ)
日本の高度成長時代に、物は豊かになった。しかし、その時代に、心は取り残された、あるいは失われた、と多くの人々は感じた。そこで多くの人々は、心を求めた、失われた心を取り戻そうとした。河合隼雄らの臨床心理学がもてはやされた。そのころ、東畑氏も、臨床心理学者を目指したという。
「しかし、本当のところ、バスは行った後だった。」(20ページ)
東畑氏もまた、遅れてきた青年であった。
「そしてなにより、カウンセリングの凋落!」(21ページ)
このあたりの、臨床心理学の流行り廃りは、わたしはよく分からない。私が若いころは、精神分析が現代思想全般に大きな影響力を持っていた、最近は、そういう部分はずいぶんと廃れたように思う一方で、臨床心理学は、東畑氏や信田さよ子氏らの活躍もあるし、スクールカウンセラーだとか、世の中に制度的に定着し、ずいぶんと隆盛を誇っているようにも思えるが、どうなのだろうか。(有資格者の非正規雇用とか、隆盛というには問題も多いわけだが。)
「それだけじゃない。心をケアするために、内面ではなく、外界を整備することの重要性が強調されるようになった。例えば、住まいを提供したり、生活費を支給したり、労働環境を変えたり、問題は心ではなく、環境なのだと言われるようになった。メンタルヘルスの最前線は、経済的/社会的問題へと移っていったのだ。」(21ページ)
【ソーシャルワークあるいは外界の整備と臨床心理】
私などは、「心をケアするために…外界を整備することの重要性が強調される」などというところは、まさしくそうあるべきであり、「経済的/社会的問題」を語らずにメンタルヘルスの問題を紐解くことはできないと思っている。それをあたかも「心」の軽視でああリ、臨床心理学の凋落の徴と捉えるというのは違うだろう、と思う。
私は、哲学、文学、心理学のディレッタントで、現在の仕事は、ソーシャルワーカーたらんとするところではある、というところで、狭い意味の臨床心理学の専門教育を受けた人間ではないので、社会関係の調整から切り離されたところで、純粋な「心」の問題を取り扱おうとするような志向は持ち合わせていないわけである。
だからといって、心の問題を軽視しているわけではない。外界を整備すること「だけ」が重要だなどと言ったら、それは誤りでしかない。むしろ、心をこそ最重要視している。カウンセリングなどしなくてもいいとは考えていない。(一応、実習を経て、産業カウンセラーの資格も有している。ちなみに、1対1のカウンセリングについてはどうなのか、という問題はあると思う。)
と書きながら、急いで書き加えておきたいのは、あたかも東畑氏の論に対する反論をながながと書き連ねたようにも見えるかもしれないが、決してそんなわけではない、ということだ。見失われた心を再び見出そうとする、氏の繊細な試みに共感し、寄り添って行こうとしている。ただ、「心」が失われたという現在を強調するために氏が使ったレトリックの、レトリックたる部分に反応したに過ぎない、と言えばいいだろうか。
つまり、私としては、「心がどこに消えたか?」という問題と、「臨床心理学」の栄枯盛衰の問題は、切り離して読んでいきたい、ということである。
東畑氏は、以下のように書き進めていく。
「心はものの反対である。ただし、そのためには物が「確か」でなくてはならぬ。
だけど、そういうリアリティは消えてしまった。
今でもお店に行けば物はたくさん並べられている。物自体は溢れている。でも、社会が豊かだとはとても思えない。」(23ページ)
このあたり、高度成長のあと、河合隼雄が臨床心理を唱えた時代から続く同様の問題群なのだと思う。
【サーカスを始めよう!】
さて、物語は始まる。
「大きな話はもう十分だ。…エピソードに乏しい、抽象的な文章しか書けない臨床心理学者は舞台裏に引っ込むべきなのだ。
今、必要なのはエピソードだ。小さすぎる物語だ。」(33ページ)
ところで、「抽象的な文章しか書けない臨床心理学者」とは、誰のことだろう?臨床心理学者である限り、そんなひとはひとりもいないはずだと思う。中村雄二郎と河合隼雄以来の、鷲田清一が継承した「臨床」という言葉の意味からしてそうだし、実際、私の乏しい読書の経験のなかで、個別具体の人間の小さな物語を書かなかった臨床心理学者はひとりもいなかったはずだ。
そうか、ここは、「私、東畑開人は、この本でエピソードに乏しい抽象的なだけの文章は書きませんよ」と心構えを開陳したレトリックと捉えるべきところか。なるほど。
「サーカスを始めよう。
チャチなラッパが鋭く鳴る。色とりどりのバルーンが舞う。爆竹が炸裂し、煙がモクモク立ち込める。拍手と共に幕が上がる。
さあ、カラフルなエピソードたちが、舞台に上がる。」(33ページ)
ということで、長い序文は終わる。心躍る始まりかたではないか!レトリックもまた楽し。
余談だが、東畑開人氏の風貌は、なんというか、村上春樹をちょっと若くしてちょっと細くした、みたいだ、と私は常々思っている。
さて、紹介は以上で切り上げてもよいが、少々、小さな物語も引いておこう。東畑氏の華麗なレトリックを楽しんでみたい。
【シンデレラの廊下】
小見出し「現実の水割り」という節で、「廊下」のことを書いている。
「生きるとは変身し続けることだ。私たちには複数の自分があって、違った部屋で違った相手といるとき、違った自分に変身する。まるでシンデレラのように、魔法をかけられたり、解けたりしながら生きているのだ。
だけど、真夜中の鐘ひとつで、突如魔法が解けるなら、シンデレラだって呆然としてしまう。きらびやかなプリンセスが、みすぼらしい灰をかぶった少女に戻るとき、その喪失はあまりに過酷だ。…
だから廊下なのだ。廊下は変身のための場所だ。そこではシンデレラは半分プリンセスで半分灰かぶりだ。だから、彼女はガラスの靴を落とす余裕があった。」(69ページ)
最近、私と妻のふたりで、ある場所で朗読を行ったが、その際に読んだ詩の一つがシンデレラの童話を下敷きにしたものであったので、引用したくなったところでもある。
「言い添えると、それは必ずしも物理的な廊下じゃなくてもいい。…心に廊下を作り出す。行われているのは遊びだ。そうやって、私たちは日々孤独とつながりの間を行き来しているのだと思う。人間らしいことは大体廊下で起こっているのだ。」(70ページ)
ふむ、「人間らしいことは大体廊下で起こっている」、確かにその通りに違いない。
【リストカットあるいは心の傷】
また「リストカット」という節で、
「名門高校を中退した後、コンビニでアルバイトをしていた若い女の子が、心療内科から紹介されてきた。リストカットをやめられないのが理由だった。彼女は自分が嫌いだった。自分は性格が悪く、醜い。みんなに嫌われているから、いない方がいい。実際の彼女は大人びていて美しかったのだけど、本人はそう思っていた。そして、そういう思いがせりあがってくると、腕を切った。するとしばし心を麻痺させることができた。
印象的だったのは、彼女がうまく話をできなかったことだ。日々の様子を聞いても、「普通です」とか「大丈夫です」としか言えず、沈黙することが多かった。自分の気持ちを言葉にして他者に伝えることが難しかったのだ。」(93ページ)
この女の子は、東畑氏との半年にわたるカウンセリングのあと、母のことを語りはじめる。
そこから始まる母と子とカウンセラーの物語は、著作にあたってもらうことにして、
「必要なのは自分でなんとかすることではなく、人になんとかしてもらうことだ」(94ページ)
ひとに、気にかけてもらうこと、ケアしてもらうこと、支援してもらうこと。自己責任ばかりの世の中ではつら過ぎるのだ。
カウンセリングとは、心の傷のケアであるに違いない。
「物語は傷つきを核として生まれてくる。日々のカウンセリングもそうだ。」(110ページ)
【物語を紡ぐこと 別の物語を喚起すること】
そして、カウンセリングとは、それまでとはまた別の物語を紡ぐことに違いない。
「少なくないカウンセリングが、最初にクライアントが思い描いていたのとは異なる未来にたどり着く。あってほしかったものが失われ、想像もしなかったものを手にする。彼女が夫を失い、オレンジの傘を手に入れたように。
…その結果、思いもかけない、いびつな生き方になるかもしれない。それでも、そこにその人のオリジナルな人生がある。長いカウンセリングの終わりに、心には深い創造性があることをいつも感じる。」(246ページ)
上の引用の、ある女性が「夫を失い、オレンジの傘を手に入れた」お話も、著作に譲る。
東畑氏は、あとがきを、下のように閉じる。
「…(この書物に)書かれたおはなしたちが、読者であるあなたのおはなしを呼び起こすようなものであってほしい…。
誰かの小さすぎる物語がまったく異なる境遇にある別の誰かの小さすぎる物語を喚起する。おはなしには別のおはなしを呼び覚ます深い力がある。
これこそが臨床心理学が原理とした力であったし、私をこの学問に引っ張り込んだ力であった。
おはなしを触発するおはなし。この学問に、そして私たちの社会に、そういうものを産み出す力がまだ生きていることを信じて、この本は書かれた。」(249ページ)
私もいつか、物語を触発する物語をこそ、書いてみたいものだ。
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