ぼくはなぜ、ものを書こうとするのだろうか?
図書館の、あるいは大きな書店の書棚の中を歩いていると、おびただしい分量の本が溢れている。世の中には、既に大量の本が存在する。うまいこと私の書いた文章が一冊の本になったとして、そんななかに、一冊増えても、どんな影響を及ぼすことができるだろうか?ぼくはすでに、私家版で、3冊の詩集を出しているが、そんなことは、草の葉の露ひと粒ほどの価値もない。
もちろん、日本に限っても、1億3千万人ほどの人間が生きている。そんななかで、ぼくが生きていようが、まして死んでも、いかほどの影響もない。
そんな寄る辺なさ。
国全体のレベルを想定した時、これはもちろん、世界を想定すればなおさらにということになるが、ぼくひとりが生きているということは、圧倒的に無意味だ。こんな無意味な世界を生き延びていくということ、そこにどんな意味があるのだろうか?無意味なのだから、意味などはない。
ぼく自身が、無意味だと、まず言ってしまったのだから、それが意味を持たないことは、ごく当然のことだ。
無意味=意味がない。これは、トートロジーだ。ごく単純な数学の公理だ。
そんなことは、全く当然のことで、あえて、いま、ぼくが言い立てるべきことではない。こんなことを言うことは、どう考えても無意味だ。
無意味な世界で、意味のないことを言い立てる。
無意味なまま、ぼくらは生き延びていくほかない、のだろうか?
何故かぼくはいまここにいる。既に生を受けて、生きてしまっている。そしてぼくは語っている。書いている。言葉を紡いでいる。言葉がどこからかやってきて、ぼくの体をとおして出ていく。口が発し、指がキーボードをたたく。
ぼくが語ることをぼく自身は聴いている。ぼくが書くことをぼくは読む。
ぼくが聴きたい言葉を、ぼくは語ろう。ぼく自身が読みたい言葉を、ぼくは書こう。ぼくはぼく自身という最良の読み手のために、なにごとか書いてみよう。ぼくはぼく自身という読み手のために、最良の書き手となろう。
そうだ、ぼくは、そこから出発しよう。ぼく自身という読み手のために、ぼく自身が書き手となる。
生きてしまっている受動を、そこから能動に転じよう。ぼくひとりのためであれば、ぼくはなにごとかなし得るだろう。ひとりの力でも、なにごとか影響を及ぼせるだろう。
ひとりのためにひとり。ぼくはそこから出発しよう。
しかし、ここまで述べたぼく自身のために書くという宣言からは、一見もっとも遠いひとつの情景を書いておきたい。
昔々、あるところに、ひとりのおじいさんがいた。おじいさんは、囲炉裏の前に座り、まわりを取り囲む孫たちや、妹や弟の孫たちに、昔の話を語って聞かせた。彼が生まれて育って経験してきたさまざまのこと。そして、彼が見聞した世界のさまざまなこと。孫たちは、暖かな炉辺で熱心に耳を傾けた。黙って聴きこんでいるかと思うと、騒がしく質問する。どうして?それで、そのあとどうなったの?おじいさんは、問いかけに答え、そこから、別の記憶が呼び起こされ、再び語り続ける。
おじいさんは、穏やかに、しかし、熱を込めて語り続ける。これまで生きてきた人生の最良の時間とでもいうように、微笑んで、幸福そうに。
図書館の、あるいは大きな書店の書棚の中を歩いていると、おびただしい分量の本が溢れている。世の中には、既に大量の本が存在する。うまいこと私の書いた文章が一冊の本になったとして、そんななかに、一冊増えても、どんな影響を及ぼすことができるだろうか?ぼくはすでに、私家版で、3冊の詩集を出しているが、そんなことは、草の葉の露ひと粒ほどの価値もない。
もちろん、日本に限っても、1億3千万人ほどの人間が生きている。そんななかで、ぼくが生きていようが、まして死んでも、いかほどの影響もない。
そんな寄る辺なさ。
国全体のレベルを想定した時、これはもちろん、世界を想定すればなおさらにということになるが、ぼくひとりが生きているということは、圧倒的に無意味だ。こんな無意味な世界を生き延びていくということ、そこにどんな意味があるのだろうか?無意味なのだから、意味などはない。
ぼく自身が、無意味だと、まず言ってしまったのだから、それが意味を持たないことは、ごく当然のことだ。
無意味=意味がない。これは、トートロジーだ。ごく単純な数学の公理だ。
そんなことは、全く当然のことで、あえて、いま、ぼくが言い立てるべきことではない。こんなことを言うことは、どう考えても無意味だ。
無意味な世界で、意味のないことを言い立てる。
無意味なまま、ぼくらは生き延びていくほかない、のだろうか?
何故かぼくはいまここにいる。既に生を受けて、生きてしまっている。そしてぼくは語っている。書いている。言葉を紡いでいる。言葉がどこからかやってきて、ぼくの体をとおして出ていく。口が発し、指がキーボードをたたく。
ぼくが語ることをぼく自身は聴いている。ぼくが書くことをぼくは読む。
ぼくが聴きたい言葉を、ぼくは語ろう。ぼく自身が読みたい言葉を、ぼくは書こう。ぼくはぼく自身という最良の読み手のために、なにごとか書いてみよう。ぼくはぼく自身という読み手のために、最良の書き手となろう。
そうだ、ぼくは、そこから出発しよう。ぼく自身という読み手のために、ぼく自身が書き手となる。
生きてしまっている受動を、そこから能動に転じよう。ぼくひとりのためであれば、ぼくはなにごとかなし得るだろう。ひとりの力でも、なにごとか影響を及ぼせるだろう。
ひとりのためにひとり。ぼくはそこから出発しよう。
しかし、ここまで述べたぼく自身のために書くという宣言からは、一見もっとも遠いひとつの情景を書いておきたい。
昔々、あるところに、ひとりのおじいさんがいた。おじいさんは、囲炉裏の前に座り、まわりを取り囲む孫たちや、妹や弟の孫たちに、昔の話を語って聞かせた。彼が生まれて育って経験してきたさまざまのこと。そして、彼が見聞した世界のさまざまなこと。孫たちは、暖かな炉辺で熱心に耳を傾けた。黙って聴きこんでいるかと思うと、騒がしく質問する。どうして?それで、そのあとどうなったの?おじいさんは、問いかけに答え、そこから、別の記憶が呼び起こされ、再び語り続ける。
おじいさんは、穏やかに、しかし、熱を込めて語り続ける。これまで生きてきた人生の最良の時間とでもいうように、微笑んで、幸福そうに。
情報が氾濫し、生活も広域化(極端にはグローバル化して)すると、人間の知恵の生きる範囲は極小化してしまう。かといって、仮想的な小さな世界に閉じこもっても、マスターベーションの日々が続くだけ、・・・何とも難しい時代です。現代の宮本常一、現代の村落共同体は、どこにいるのか、どこにあるのか・・・
千田さんの宇宙がある、ということだけで素晴らしいと思います。
グローバル化した中での個人がバラバラであること、それに対し共同体をいかに復権するか、ということが課題だと思っています。だが、そのためにも、まずは、個人、私として立とうという覚悟が必要でしょう。
わたしひとりぐらいなら何とかなりそうです。
でも、やはり、私ひとりぐらいなら何とかなりそう、そこから出発するほかないのでしょうね。