ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

斎藤環・福山哲郎 フェイクの時代に隠されていること 太田出版

2018-11-29 22:16:46 | エッセイ

 福山哲郎氏は、立憲民主党の幹事長、政治家であり、同時に、政治学者でもあるようだ。京都造形芸術大学の客員教授。同志社大学から京都大学大学院博士課程を出ている。

社会学者宮台真司との対談『民主主義が一度もなかった国・日本』(幻冬舎 2009年)を、以前に読んでいるが、読書の記録をブログに載せ始める前だった。

 斎藤環氏は、精神科医、筑波大教授。ひきこもり支援の専門家であり、最近はオープン・ダイアローグ・ネットワーク・ジャパンの共同代表を務め、日本におけるオープン・ダイアローグの受容に尽力されている。ラカン派精神分析の紹介者、文芸評論家でもあり、最近は、ヤンキー文化から日本社会を読み解く試みも著し、優れた思想家としての顔も持つと言ってよいと思う。

 斎藤氏による「はじめに―ソフトな全体主義から対話的民主主義へ」から引く。

 

「“正しさ”が人を動員しなくなった時代に、一体私たちには何ができるだろうか。/対談中でも何度か言及しているが、私はそれこそが「コミュニケーション」ならぬ「対話」ではないかと考えている。」(15ページ)

 

「ネットが可能にする「つながり」や「コミュニケ―ション」の円滑さに抗うように、身体を持ち寄り声を響かせて対話をすること。そのためにこそ、安心と安全をもたらす対話空間を、「政治」が保証する必要があるということ。」(16ページ)

 

 現在の政治状況は、「ソフトな全体主義」に覆われているのではないか、そうではなくて「対話的民主主義」こそ求められるはず、という問題意識のもと、行われた対談ということになる。

 ここで「対話」は、「コミュニケーション」とはまた違うものとして語られている。現在の社会を生き延びていくうえで必要な「コミュ力」とか、ひととつながる能力とか、最近、「コミュニケーション」というと、個人の能力として語られる局面が多いようだ。必ずしも肯定的な意味合いで使われないケースが出てきている。能動的なコミュニケーション。過剰な競争社会を生き延びていくツールとしてのコミュニケーション。義務としてのコミュニケーション。就職の際に重視される能力としてのコミュニケーション力。

 國分功一郎氏が、著書「中動態の世界」で述べているような「中動態」的な意味でのコミュニケ―ションであればいいのだが、社会で、会社でまわりのひとと協調して生きていくためには、「コミュ力」が必須、みたいな文脈で語られる、個人の能力として求められるものとしての能動的な「コミュニケーション」。

 ということで、最近は、「コミュニケーション」という言葉は避ける場合も多いようである。このコミュニケーション力というものが「ソフトな全体主義」にもつながっていく、ととらえられる。

 「対話的民主主義」というときの「対話」は、能動的なコミュニケーションとはまた別のものとして語られている。

 最近、精神障害、精神科医療の最先端で注目されている「オープン・ダイアローグ」というものがある。直訳すると「開かれた対話」となる。「対話」とは、「オープン・ダイアローグ」的な意味での対話である。

 斎藤氏が、「オープン・ダイアローグ」のことを語る。

 

「先日、「オープン・ダイアローグ」の講演会が東大の安田講堂であって、千人くらいの聴衆が集まったんです。医療や福祉の現場で、今非常に関心が高まっています。

 オープン・ダイアローグというのは、ものすごく単純化していえば、対立する意見同士が同じ場所に集まって、罵倒や中傷じゃなければいちおう何をしゃべってもいいという形で、いろんな意見を出し合っていって、結論を導くというより、いろんな多様な意見がポリフォニックな感じで響き合う空間をつくっていって、そこから自ずと結論が導き出されるのを待ちましょう、みたいなことです。これは治療としても、非常に有効なんです。政治的議論にはちょっと悠長すぎるかもしれませんが。」(106ページ)

 

 この「オープン・ダイアローグ」的な「対話」が、ここからの政治状況、日本社会のあり方を探っていくうえで重要なのではないか、ということがこの対談の「肝」ということのようである。

 いわゆる「保守」が、感情のつながりを重視する「ヤンキー」的な「ソフトな全体主義」に傾くのに対し、いわゆる「リベラル」は、正しいこと、理屈の通ることを重視し、結果、それが分断に結びつく、という弱点を持ってしまう。

 「ヤンキー」については、斎藤氏が面白い分析を行っている。この対談でも触れられているが、著作も参照してほしい。

 それに対し、「リベラル」が分断を乗り越え、また違う意味での本来の「保守」とも結びついていくうえで、「正しいこと」に固執しない「リベラル」を探っていくことが必要ということになるのだろう。

 感情と理論の融合、みたいな話だろうか。

 

「オープン・ダイアローグには、いろいろな思想が背景にあるんですけれど、一番大事なことのひとつが、「正しいことを言ってはいけない」ということです。」(108ページ)

 

 ただ、これは「正しくないことを言え」ということではない。「正しい」とか「正しくない」とかは、あらかじめ定まったものではない。私にとって正しいことが、あなたにとっても正しいとは限らない。「正しい」ことを、議論の余地なく正しいことと押し付ける言い方は避けなくてはならない。

 

「「医学的にはこれがエビデンスなんだから、患者がそれを受け入れるべき」ってことは、絶対に言わないというのが、ひとつのルールみたいなものなんですね。」(109ページ)

 

 正しいことを押し付けるのでなく、語り合い、聴き合うこと。そこから可能性が開けてくる。

 ところで、斎藤氏は、安倍政権への評価として、こんなことも語っている。

 

「ここ数年間の政策で、比較的評価できると私が考えているのは、障害者総合支援法の下での「就労移行支援」事業所の充実ぶりだ。この法案自体は民主党政権下で成立しているが、安倍政権はその内容をさらに改善している。」(はじめに 14ページ)

 

 「就労移行支援」、これも、オープン・ダイアローグ的な考え方がかなり有効に働く場面であるらしい。

 というようなことで、この対談は、これからの日本の社会のありよう、政治状況の向かうべき方向性を、分かりやすく紹介してくれる本、ということになりそうだ。一方、オープン・ダイアローグの考え方が広まり定着していくうえで、良き入口ともなっている、と思う。


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