19日の日曜日、リアス・アーク美術館に出かけて、20周年記念展シンポジウム『震災と表現 美術の社会的役割について』を聴いてきた。
基調講演は、東北大教授五十嵐太郎氏、パネルディスカッションに、多摩美大教授で美術評論家の椹木野衣氏、神戸大準教授槻橋 修氏、ファシリテーターはリアス・アーク美術館の山内宏泰という顔ぶれ。
内容は、なかなか面白く刺激的なものであったが、その紹介をしようということではない。聴いているうちに考えたことを書きとめておきたいと思ったところだ。各氏の報告を聴きながら、「美術の社会的役割」というテーマのことをつらつらと考え合わせつつ。
質疑の時間に問いかけてもよかったのだが、いささか短時間であり、2名の方の質問でいっぱいだった。
震災後のリアス・アーク美術館の新たな常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」は、現実を切り取って圧倒的な存在感を持ち、気仙沼市にとっても、全国的にも、恐らくは世界的にも、非常に重要なものであることに間違いはない。もちろん、それが「美術」なのかどうか、疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、それは紛れもなく美術に違いない。
そして、マスターピースを持たないと、一部の人びとから批判され続けてきた美術館にとって、この気仙沼に立地するリアス・アーク美術館にとって、この常設展の開設こそが、20年前の開館時点からのそもそもの目的だったとすら言えるのかもしれない。リアスの方舟は、2011年の震災の記憶をこそ運ぶべくして生み出されたものなのだと。
これが、可笑しなもの言いであることは言うまでもないことなのだが。
いま、気仙沼を訪れる人の相当部分が、このリアス・アーク美術館を訪問しているらしい。震災の記憶を目の当たりにするために。現時点で、震災から復興しようとする気仙沼において必要なものとして、美術館がある。
その美術の力。
まさしく、社会的役割を果たしている美術。
そういう前提に立って、浮見堂のことを考えていた。
気仙沼の内湾にぽっかりと浮かぶ浮見堂、夜にはライトアップされる浮見堂。
それは、もちろん今はない。
あの日に流され、あるいは焼かれて消失した。
いまは、誰も、もういちど浮見堂を見たいとは言わない。もちろん、今はまだ、それを語り出すときではない。
もういちど、あの浮見堂を見たい、コの字岸壁から廻り込む浮見海道を復活させたいと語るひとはいない。
それを言いだせるのは、気仙沼が、あるいはせめて内湾周辺の地区が一定の復興を見せるときを待たなくてはならないのだろう。まずは、生存の復旧、生活の復旧。美しいものの復活は、あくまでそれ以降のこと。
つまり、浮見堂の再建というのは、気仙沼の復興のひとつのメルクマール、ひとつの象徴ということになる。
ひとつの夢の実現としての浮見堂。
これもまた、美術のひとつの在り方ではないか、と思ったわけだ。美術の社会的な役割。
その浮見堂が以前と同じ形のあずまやになるのか、また、別の形態のなにかになるのか。だれがその設計を、あるいは、造形を担うべきであるのか。
もっとも、観光地気仙沼、と言った時には、ひとつの観光ポイント、内湾景観の焦点としてもっと早い時点での復活、ということもありえないではない。
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