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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

兼本浩祐 普通という異常 健常発達という病 講談社現代新書2023

2023-07-10 13:18:59 | エッセイ
 兼本氏は、著者紹介によれば、1957年生まれ、京都大学医学部卒の精神科医で、愛知医科大学医学部精神科学講座教授、てんかんや発達障害についての著書をお持ちのようである。詩人でもあり、『世界はもう終わるときが来たというので』、『深海魚のように心気症を病みたい』、『ママチャリで僕はウルムチに』、『象の耳を埋めることができるわけではないのだけれど』の4冊の詩集をものされているとのこと。

【定型発達あるいは健常発達】

「ADHD(注意欠陥・多動性障害)という診断名は、最近、ASD(自閉スペクトラム症)と同じくらいよく耳にするようになりました。」(はじめに 3ページ)

 これらは、一般には発達障害とくくられることが多い。いわゆるふつうの発達に比べて、なんらかの問題がある、障害があるとされる。

「ADHDやASDは、非定型性発達と呼ばれることもあります。そして人数の多い『普通』の発達をする人たちを定型発達と呼ぶこともあります。この定型発達というあり方は少し前までは「健常発達」とも呼ばれていました。健常発達という言葉には、もう片方は健常ではない、つまり病気であるという価値判断が加わることになります。ですから、一方が完成形で他方は不全型だという価値判断を避けるために、健常発達という呼び名は。定型発達という言い方に変更されたわけです。」(4ページ)

 健常でない、ふつうではない、病気であるという言い方には、単なる「区別」のみではない「差別」がつきまとってきた。定型、非定型と呼び代えることによって、一定程度、人権への配慮が行われたということにはなる。しかし、兼本氏が、この書物で訴えたいのは、発達障害と呼ばれる人々の人権擁護のことではない。
 ある意味で、障害者と健常者という区別、あるいは、差別をまったく無化するような驚くべき事態について語るものである。回り回って、結果として発達障害と呼ばれる人々の人権擁護につながるということは言えるのではあろうが、それは直接の目的ではないようである。
 兼本氏の語ろうとすることは、タイトルに明示されているとおり「普通という異常」についてであり、「健常発達という病」についてである。ふつうのひとこそ病んでいるという逆説、逆転劇、非常識をこそ語ろうとするものである。

「…定型発達の特性を持つ人も負けず劣らず病い的になることがあるのではないか、この本で取り扱いたいのは、こういう疑問です。たとえば定型発達の特性が過剰な人が、「相手が自分をどう見ているかが気になって仕方がない」「自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から矢も盾もたまらなくなってしまう場合、そうした定型発達の人の特性も病といってもいいのではないか、ということです。」(5ページ)

 いや、ここでは、ふつうの人すべてが病んでいると言っているわけではなく、定型発達の特性が過剰な人は病と呼べるのではないか、と控えめな表現になっている。

「ですから、この本では「健常」という言葉に暗に含まれている「自分は普通なのだ」という一部の定型発達の人のこだわりをあえて強調するために、定型発達ではなく、「健常発達」という用語を用いることにしたいと思います。」(5ページ)

「人間とは一つの症状なのだ」という世紀末に流行ったプロパガンダをもう一度声高に喧伝しようという意図はないのですが、健常発達的特性が極端になれば、それはそれでやはり耐え難くしんどいことではあるのであって、健常発達という病を考えることは、そのまま人間とは何かを考えることにつながるのではないかという方向性には、今もなにがしかの有効性はあるのではないかとは考えています。」(7ページ)

 人間とは一つの症状だという世紀末に流行ったプロパガンダうんぬんのフランスの精神分析家ラカンを引き合いに出した部分は、引用しなくとも良かったところだが、ここは極めて穏当なことを語っている。「健常発達という病を考える」ことの有効性は、確かにあるというべきだろう。

【一つの事例―空色ランドセルがかぶった事件】
 事例として、第1章「いじわると健常発達者」冒頭から「空色ランドセルがかぶった事件」が紹介される。

「Aちゃんはなかなかに利発な人で、ちょっとした受験が必要な小学校にそれほど受験勉強もせずに進学しました。本人の希望で空色のランドセルをお母さんから買ってもらって、意気揚々と彼女の小学校生活は始まりました。しかし、早速そこでちょっとした事件がもちあがります。もう一人、空色のランドセルを選んだ子がたまたまいて、ランドセルの色がバッティングしてしまいます。そして、そのもう一人の…子、クラスでお友達も多く、ちょっとボス的なBちゃんに目を付けられてしまうのです。」(18ページ)

「Aちゃんが夢中なのは、怪獣や昆虫で、彼女の愛読書は、『おもしろい!進化のふしぎ ざんねんないきもの辞典』です。…ですから、ランドセルの色がバッティングしたことなどは…気にも留めていません…。しかし、…Bちゃんの…猛アタックが始まりました。早熟で社会性の高いBちゃんは…取り巻き…も巻き込んで…小さな策略が張り巡らされます。」(18ページ)

 ここで、Aちゃんは、独特の関心を持った「ふつうではない」子、Bちゃんは早熟な定型発達の子、という対比になる。読み進めていくと、Bちゃんはいじめっ子になる、あるいはなろうとするが、Aちゃんは、なぜかするりと対処、というよりは気づかずに、いじめられっ子にはならない、というおもしろい展開になる(後書きまで行くと、Aちゃんは「ADHD的な」と明示されている)が、この先、この書物は、Aちゃんについてではなく、Bちゃんのような、定型発達あるいは健常発達の病理について、解き明かしていくことになる。

【健常発達症候群というパロディ】
 第2章は、「ニューロティピカル症候群の生き難さ」である。「ニューロティピカル」とは「直訳すれば「神経組織として定型的な」とでもなるのでしょうか」ということだが、「健常発達症候群」と訳し、アメリカ自閉症協会有志が作成したというその「操作的診断基準」を紹介している。「健常発達的心性を持つ人たちを「健常発達症候群」という障害としてみて、つぎのような…疾病的特性を挙げています。」これは、普通の意味では健常であり健康であるはずの状態の病理を記すという矛盾した行ないであり、言うまでもなくパロディである。
(「操作的診断基準」とは何か、説明が必要なところだが、ここでは、「操作的」という言葉は気にせず、一般的に「診断の基準を項目として書き上げたもの」とのみ読み取ってもらえればいいだろう。)

「(1)ニューロティピカル症候群は遺伝的に発生すると考えられています。
 (2)非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。
 (3)社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。(以下(8)まであるが省略。)」(60ページ)

 ちなみに(8)には「治療法は現在のところわかりません」と書いてある。
言うまでもなくパロディなのであるが、パロディでは済まない問題が提起されている。そもそも、自閉症協会有志という当事者が、既存の精神医療を批判するために書いたものであろう。(ところで、著者によれば、この訳文は、訳出上の問題があると思われるとのことだが、原文がすでにリンク切れしていて確認できないとのこと。)
 第3章「ほんとうは怖い「いいね」と私」に、下記のように記されている。

「健常発達…がもし病であるとしたら、どのようなかたちをした病なのか…。結局、それは対人希求性、あるいは周りの人への忖度に絡めとられてしまう状況であったわけです。」(94ページ)

 健常発達者とは、周りの人との関係を極端に気にして忖度するような関わり方をしてしまう人々ということになる。

【ノマドと定住民―ふたりの空色のランドセルの子たち】
 第4章は「昭和的「私」から「いいね」の「私」へ」、第5章は定住民的健常発達者とノマド的ADHD」である。

「Aちゃんの生活は、一種ノマド的です。次々におもしろいと思えることに興味は変転し、青虫さんとの出会いに喜び、別れに号泣し、…たちまち飽きてやめてしまいます。
 対して、Bちゃんの生活は定住民的です。根回しと駆け引きで同級生を支配・被支配関係におき、承認欲求を満たし、…もう一人の「空色のランドセルの子」候補であるAちゃんを取り込むか、あるいは場合によって何らかのかたちで打ち滅ぼすか…しなければ、自身の顔を失ってしまうリスクを背負わなければならなくなってしまいます。」(180ページ)

 さらに、後書きにこう記す。

「この本での私の出発点は、贔屓にしているADHD的なAちゃんを応援したいという単純な気持ちでした。…最終的にはBちゃんとして生きることに疲れたときの処方箋をいつの間にか考えているといった具合になっていました。」(250ページ)

 具体的な処方箋については、ここでは引用がかなわなかったが、実際に書物に当たっていただきたい。
 たまたまADHD的であるけれども贔屓にしているAちゃんを応援するために書き始めた書物が、健常発達者として生きることに疲れた人のための処方箋となったということである。

【兼本氏の、詩と思想】
 この書物を読むことによって、非定型的な発達経過を辿る人々にとって生きづらい現代社会が、普通の定型的な発達を遂げる人々にとっても生きづらいという大きな問題が立ち現われてくるということになる。
 登場する具体的な人名を挙げていくと、思想、哲学の分野で、デカルト、古代ギリシャのパルメニデスやゼノンといったエレア派、ハイデガー、フロイト、カフカ、ボードリヤール、サルトル(特に「他者のまなざし」について)、ジル・ドゥールーズ。文学芸術関係で、子規、漱石、ガウディ、アンディ・ウォーホール、エヴァンゲリオン、三島由紀夫。現代の思想家として、大沢真幸、郡司ペギオ幸夫。また、田中みな実と広中綾香の「あざとかわいい」とか、ディズニーとか、あるいは著者の年代の若かりし頃のアイドルとも言うべき、神田理沙『17歳の遺書』など。
 現代社会の大きな問題に立ち向かおうとするとき、ここに挙げた著者たちの中では、たとえば、大沢真幸は精力的に論考を発表しており、著作も手に取りやすいところである。「世界史の哲学」のシリーズなど、ぜひおすすめしたいところである。
 詩人としての著者らしいところを引用しておけば、

「逆に意外にも、『臆病な詩人、街へ出る』の詩人、文月悠光の場当たり的と思える試みの数々は、意味のスクロールに囚われた郡司さんの足の爪の切り方の擦り合わせと似て、「やってくる」ものとの出会いを探す、正しくノマド的な選択肢を示しているようにも思えます。「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」という文月さんの本の中のフレーズにも、残酷なほど人というものを避けがたく浴びてしまう詩人らしい敏感さが美しく響いています。」(243ページ)

 さらに、哲学思想への造詣が露わなところとして、

「病と呼ばれる現象が、一種の臨界点において形を取るものだとするならば、また哲学が、それ自身の論理をその極北まで展開させることをその業とするものであるならば、それぞれの病はそれに固有の哲学的方法との親和性があるようにも思えます。例えば分析哲学とASD、あるいは現象学と統合失調症、ADHDのあり方は、ドゥールーズの『意味の論理学』で極端にみられるような多くの断章が発生過程の有機体のように直近の断章に触発されて融通無碍に変性するスタイルとある種の相似形をしているようにも見えますし、その理想形は、設計図を欠きつつ、つぎつぎに隣接した部分が建て増しされていくガウディの建築のようであるのかもしれません。」(251ページ)

 ジル・ドゥールーズの語る「ノマド」とか「定住民」については、國分功一郎氏らによるフランス現代思想の新書版の解説書などをおすすめしたい。



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