山口周氏は、1970年生まれ、独立研究者、著作家、パブリックスピーカーとのこと。慶應義塾大学文学部哲学科から、同大学院の美学美術史の修士を出て、電通、ボストンコンサルティンググループ等で、戦略策定、文化政策、組織開発などに従事、とある。
なかなかに興味深い履歴である。華麗な経歴、と言っていい。
「はじめに」は、こう書き出される。
「ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?」(12ページ)
で、その疑問への
「答えはイエス。ビジネスはその歴史的使命を終えつつある。」
というものである。
これは、あっと驚かされた。
この人の経歴を見ても、プレジデント社という出版社のイメージからも、予想だにしない答えであった。現代日本の王道を行くビジネス系出版社(だと思う)から上梓された書物の冒頭に、いきなり、ビジネスの命運はもはや尽きる、と書いてあったわけである。
ここで言っている〈ビジネス〉とは、具体的にはどういうことを指しているのだろうか。〈busy〉(忙しい)から派生した、追い立てられるように常に忙しい仕事、ライバルとの競争に駆り立てられているような仕事、売り上げ売り上げと責められる強迫神経症めいた仕事、そんな含意のビジネス〈business〉ということではあるかもしれない。
しかし、実際、世の中のトレンドは、大きく変化しているのかもしれない。いささか飛躍しすぎかもしれないが、私たちはこれから、資本主義の終焉に立ち会うことになるのかもしれない。そう期待してもいいのかもしれない。ただ、山口氏は、斎藤幸平氏(直前に読んだ『人新世の「資本論」』での行論)とは違って、資本主義が終わるという言い方は慎重に避けている。
【資本主義をハックする】
表紙のブックカバーのキャッチコピーは、
「新しい時代を創るために資本主義をハックしよう」
というものである。
〈ハックする〉?どういうことだろうか?
もういちど表紙を開いて、「はじめに」に戻る。
「本書で後ほど示すさまざまなデータは、私たちが過去200年にわたって連綿と続けてきた「経済とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」というミッションがすでに終了していることを示しています。この状況は昨今、しばしば「低成長」「停滞」「衰退」といったネガティブな言葉で表現されていますが、これは何ら悲しむべき状況ではありません。古代以来、私たち人類は常に「生存を脅かされることのない物質的社会的基盤の整備」という宿願を抱えていたわけですから、現在の状況は、それがやっと達成された、言うなれば「祝祭の高原」とでも表現されるべき状況です。」(13ページ)
これはまたずいぶんと楽観的な語りようである。私たちは「祝祭の高原」にいる。
ここまで読んで、なんと能天気な、と呆れて本の扉をパタンと閉じるという人もいるかもしれない。世界の、というだけでなく、足元の日本社会の貧困はどうなのだ、それこそ、生存を脅かされる事態ではないか。苦しんでいる人々がいるではないか。日々、事件は起きているではないか。
それは、もっともな言い分である。
しかし、この楽観は、データの読み取りに裏付けられた、つまり、エヴィデンスに基づいたものであるらしい。
そして、そういう現状認識を踏まえてこそ、現今生じている様々な問題を解決し得るのだ、と山口氏は主張されているようである。
そういう論調のなかで、私もどこか安心して読み進めることができた。問題解決はたしかに可能かもしれないとポジティブに捉えることができそうである。
私のこれまでの読書体験に、なにか、全く新しい次元を開いてくれた書物なのかもしれない。変革は、実際に可能である、そんなふうに思わされる書物。
大それた〈革命〉によらずとも、貧困とか格差とかの社会的問題は解決し得るのだ、と宣言してもらった、ということになる。
「21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生装置を施すことではなく、私たちが到達したこの「高原」をお互いが祝祭しつつ、「新しい活動」を通じて、この世界を「安全で便利で快適な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくことにあります。」(13ページ)
「昨今、資本主義に関する行き詰まりを指摘する論考は数多く出されていますが、…だからといって「資本主義は終わった」「社会の発展はここで止まる」などと乱暴に断ずるつもりはありません。」(19ページ)
〈経済の成長〉は終わるが、〈資本主義〉は終わらないという。一般的な意味合いでは、(たとえば、斎藤幸平氏の論によれば)〈経済の成長〉が終わるとは、〈資本主義〉が終わることと同義なのではないか?ここは、山口氏の戦略的なもの言いということになるかもしれない。今の世に、広く受け入れられるための方便、と言っては山口氏の意図に反することになるか。
一方、〈経済の成長〉は終わるが、〈社会の発展〉は終わらないという。ここにはすくい取るべき含蓄がありそうである。
すぐ続けて、
「現在の社会は「物質的不満の解消」についてはゲームを終了した状態にありますが、「生きがい」や「やりがい」といった「意味的価値の喪失」といった問題をはじめとして、貧困や格差や環境といった、これまでのビジネスでは解決の難しい社会的課題がたくさん残っています。」(19ページ)
〈貧困や格差や環境といった難しい社会的課題〉の解決に、今こそ、取り組まなければならない。〈物質的不満〉が解消されたはずの社会で、格差や貧困や、過度の競争、精神的な圧迫に苦しむ人々がいる。また、このままでは、地球環境が人間の住めないものになり果ててしまう。地球上の〈経済成長のフロンティア〉は失われただろうが、人間がよりよく生きるための課題解決のフロンティアは、広大に残されている、ということだろうか。社会の発展とは、その課題解決のことを指している、ということなのだろうか。
「…いずれにせよ言えるのは「古いゲームが終わり、新しいゲームが始まる」ということです。」(20ページ)
語弊はあるかもしれないが、わくわく感すらある。私も今から何か社会に役立つことができるのではないかと感じさせられる、といえばいいのか。
ところで、山口氏と、斎藤幸平氏は、言葉づかいは多少ちがうが、実は全く同じことを語っている、というふうに私は思う。資本主義を終わらせるというのも、ハックするというのも、内実はそんなに違わないはずだ。
【見田宗介、高原の見晴らしを切り開くこと、成長の終わり】
ところで、〈高原〉といえば、見田宗介である。下記の著作は、このブログでも紹介済である。
「…本書執筆の上では社会学者の見田宗介先生の著作「現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと」において用いられたさまざまな比喩的表現、思考の枠組みを転用させていただいていることを見田先生への感謝の意とともにここに記しておきます。」(20ページ)
しかし、ことほぐべき〈高原〉に住まいながら、私たちは日々、煩悶している、〈無限の成長〉への強迫観念に追い立てられ苦しんでいる。
論旨的には、先に述べてきたことの繰り返しにはなるだろうが、続けて引いていく。
「その状況を私たちは手を取り合って祝祭することができません。いやそれどころか、むしろ逆にあらゆる組織の頂上から末端まで「売上・利益が伸びない」「株価が上がらない」「成長機会が見つからない」「新規事業が立ち上がらない」と眉間に苦渋のシワを寄せて煩悶している人ばかりです。」(38ページ)
経済の〈成長〉は、すでに〈歴史的使命〉が終了しているのに、世の人々は、無意味にその延命を図っている。
「…いらぬ混乱を世の中に巻き起こしてなんとか「使命終了の延命」を図っている。これが多くの企業が「マーケティング」と称して行っていることでしょう。…しかし、その営みに関わっている多くの人は、すでにその欺瞞に気づいてしまっています。…精神的に壊れてしまいます。」(39ページ)
〈マーケティング〉である。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』でも、このブログでの紹介には引用はしなかったが、〈ブルシット・ジョブ〉(現代社会の、ほんとは役に立たないくだらない仕事)の典型例として、〈広告〉だとかと共に取り上げられている、そのマーケティングである。
(ただし、広告だとか、マーケティングだとかがブルシット・ジョブというのは、確かにその通りと思うところだが、一方で、生活の芸術という観点からもう少し深く考えてみたい思いもある。これは、この本の紹介としては蛇足ではある。)
成長ということについてさらにいえば、そもそも成長の指標として使われるGDPであるが、その数値は実は恣意的なものに過ぎないという。
「…どのような補正をしても、結局のところGDPが「恣意性の含まれた数値」であることには変わりがない…GDPの計量には必ず政治的配慮が絡む…計算上のさまざまな約束事の適用の仕方によって数値は大きく変わる…ある「基本的に合意された方針」に基づいて各国の統計担当者は恣意的に拾い上げた数値、言うならば「一つの意見」でしかない…そもそもGDPには「実態」などなありません。」(46ページ)
数年前にたいへん評判になったトマ・ピケティも引き合いに出す。
「フランスの経済学者、トマ・ピケティは世界的なベストセラーとなった著書「21世紀の資本」において、私たちが一般に有する「成長」のイメージは「幻想に過ぎない」と一蹴しています。」(57ページ)
【ダボス会議の会長の発言、『社会的市場経済』】
ダボス会議の会長の発言が引用されている。『社会的市場経済』が必要になっているという。ちなみに、山口氏も同会議の分科会メンバーであるらしい。
ダボス会議というのは、先進国の首脳も集まるグローバル資本主義の推進の場というふうに思い込んでいたが、ちょっと、違うニュアンスがあるのかもしれない。(斎藤幸平氏のいう大衆のアヘンとしてのSDGsの推進役ではあるのかもしれない。)
少し長くなるが、論旨を追いかけてみる。
「2020年6月、私自身も分科会のメンバーとなっている世界経済フォーラム(通称ダボス会議)は、2021年1月に開催される年次総会のテーマを「The Great Reset=グレートリセット」にすると発表しました。世界経済フォーラムを創設したクラウス・シュワブ会長は、この「リセット」が意味するものについて、次のように答えています。
世界の社会経済システムを考え直さないといけない。第2次世界大戦後から続くシステムは異なる立場のひとを包み込めず、環境破壊も引き起こしている。持続性に乏しく、もはや時代遅れとなった。人々の幸福を中心とした経済に考え直すべきだ。(日本経済新聞2020年6月3日記事より)。」(77ページ)
同じ記事で、「リセット後の資本主義はどうなるか?」との記者の質問に対して、シュワブ会長はこう答えている。
「シュワブ 資本主義という表現はもはや適切ではない。金融緩和でマネーがあふれ、資本の意味は薄れた。いまや成功を導くのはイノベーションを起こす起業家精神や才能で、むしろ『才能主義(Talentism)』と呼びたい。
コロナ危機のなか、多くの国で医療体制の不備が露呈した。経済発展ばかりを重視するのではなく、医療や教育といった社会サービスを充実させなければならない。自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められる。」(79ページ)
続けて、山口氏が補足する。
「ここでシュワブの言っている「資本主義という表現はもはや適切ではない」という言葉について、少し補足しておきましょう。「資本主義」というのは「資本は無限に増殖する」ということを信じ奉るという一種の信仰です。シュワブは、資本がもはや過剰になり増殖できなくなった以上、この信仰はもはや維持できなくなった、と言っているのです。」(79ページ)
資本はもはや増殖しないし、経済は成長しない、資本主義という表現はもはや適切ではない、わけである。
【山口氏の目指す方向、大きな北欧型社会民主主義社会】
そこで山口氏として、何を目指すのか。端的に枠で囲んだ箇条書きで示されているところがある。併せて、目指さない方向も明示されている。
「目指す方向
大きな北欧型社会民主主義社会
イノベーションによる社会課題の解決
企業活動による文化的価値の創造
目指さない方向
小さなアメリカ型市場原理主義社会
イノベーションによる経済成長の追求
企業活動による大量消費の促進」(96ページ)
山口氏は、堂々と「北欧型社会民主主義社会」を目指すと語る。なんとも頼もしい。神野直彦先生の著作に親しんでいるものからすれば、わが意を得たりとなるところである。ここで示される「目指す方向」と「目指さない方向」というのが、その通り実現されるのであれば、私としては、山口氏に全面的に同意してしまう。
社会の発展だとか、持続可能な開発だとかが、これまでのような経済成長、地球環境の搾取であるなら、異議を述べざるを得ないが、その言葉が現今の社会の改良、貧困の根絶や格差の是正を意味するのであれば、いささか紛らわしいとしても賛同していい。
【電通の「戦略十訓」、北米先住民の「ポトラッチ」】
広告代理店の電通の「戦略十訓」なるものを取り上げている。1970年代にマーケティング戦略立案のために用いられていたという。ブルシット・ジョブとしてのマーケティングとか広告というものの典型となるのだろう。電通には、山口氏が勤務していたことがあるという。
- もっと使わせろ
- 捨てさせろ
- 無駄使いさせろ
- 季節を忘れさせろ
- 贈り物をさせろ
- 組み合わせで買わせろ
- きっかけを投じろ
- 流行遅れにさせろ
- 気安く買わせろ
- 混乱をつくり出せ (138ページ)
今になってみると、なんとも、非道いことばの塊りである。
私自身、大学卒業時(1978年)に電通の就職試験を受けて、一次の筆記試験は通っていた。面接で無事、落とされたということになるが、この時代を生きてきたものとしては、そういう場所を経験できなかったことは良かったのかもしれず、あるいはむしろ逆に経験すべきことであったかもしれない。
いずれ、現在の日本社会における「電通」というものの存在の意味というのは、よくよく考えてみるべきものであることに間違いはない。
北米先住民の「ポトラッチ」の習俗は、山口昌男や中沢新一の著書で学ばせてもらい、なんと未開な、なんと不合理な、なんと無駄な、なんともったいないことと感じていた。
「このような経済のあり方はポトラッチを想起させる状況です。ポトラッチとは、文化人類学者のマルセル・モースが1925年に著した『贈与論』において紹介した、主にアメリカ先住民のあいだに見られる一種の儀式です。この儀式において、部族の酋長たちは「どちらがより多くの財産を蕩尽できるか」を競うことでお互いの立場の優劣を決めます。つまりポトラッチというのは、より気前よく、より大胆に財産をばら撒き、破壊した方が勝つという「ゲーム」なのです。」(156ページ)
若いころ、このことを知った時の驚き、理不尽さの感覚。いかにも未開民族と思われ、合理的な文明社会に暮らすわれわれの優位を思ったものである。ところが、今になると、アメリカ先住民のポトラッチの習俗の方がよほど道理に合っているように思える。大きすぎる物質的な富は、無限に増殖させてはならず、時々わざと消尽しつくすことで、より良き社会が、より良い生活が維持できるということかもしれない。
【見田宗介のコンサマトリーなど】
冒頭近くで取り上げている見田宗介氏の著作『現代社会はどこに向かうか』所載の重要な概念に〈コンサマトリー〉がある。そもそもは、アメリカの社会学者の使い始めた用語らしい。訳せば、「現在を楽しむということ」となるようだが、なかなか、ひとことで分かりやすくということにもならないようだ。
反対語は〈インストルメンタル〉、「手段的であること」となる。将来に何か良きことを実現するために、今、我慢して努力する、頑張る、苦労する、楽しむことを先送りするというようなことである。経済成長の時代には似つかわしいことばであるが、今となっては諸悪の根源であったと言える言葉だ。
「…今日の私たちの社会には「大きく、遠く、効率的」にという強迫的価値観が拭い難くはびこることになりました。この脅迫は当然のことながら微成長が常態となる「高原社会」では精神疾患の原因となりますし、何よりも「活動から得られるコンサマトリーな喜び」を排除する原因となります。
ここでカギとなるのがより「小さく、近く、美しく」という逆方向のベクトルの回復です。」(249ページ)
「顔の見える関係による喜びの交換」の回復が必要なのだという。
「…高原社会での労働は、…インストルメンタルなものではなく、労働そのものが喜びや生きがいとして回収される、労働と報酬が一体化したコンサマトリーなものへと転換します。」(264ページ)
「もし私たちが、自分の本来の感情、幸福感受性に根ざして仕事を選ぶことができれば、私たちの幸福に貢献しない仕事や活動は、社会から消えていくことになります。なぜなら、私たちの社会には市場原理が働くからです。ここに、私が「資本主義をハックする」と言っている意味があります。
UBIの考え方はかつての社会主義と近接していることから、これを「資本主義の否定」と捉える向きもありますが、本当の狙いは真逆で、むしろ労働市場に市場原理をより徹底的に働かせるためにこそUBIの導入が必要だ、というのが私の考えであることを強調しておきます。」(265ページ)
UBIとはユニバーサル・ベーシック・インカムの頭文字で、「文化的で健康な生活を維持するのに必要な金額を、無条件で、全国民に対して、給付する」(253ページ)制度のことである。しかしそれが「市場原理の徹底」だという論旨は、少々アクロバティックだな、とは思う。良きモノが良き形でに供給される体制が出来上がる、悦ばしき形で生産されたモノが供給され、悦ばしき形で消費される、生活において美しく活用されるという、悦ばしき循環が生じる、という事態を指して言っているのだと思うが、それを「市場原理の徹底」だとはふつう言わないと思う。
いや、現在の日本においては、そういうアクロバティックな言葉づかいをした方が通りが良い、という山口氏一流の戦略(マーケティング?)がある、というべきなのかもしれない。
(ひょっとすると、現今の主流派経済学の「需要と供給の一致」から始まる市場原理なるものが、ベーシック・インカムの底ざさえがあって初めて成り立ちうるようなアクロバティックな代物であることをこそ、山口氏が言いたいのだ、と言ってはうがちすぎか?)
と、まあ、紹介としてはこんなところだろうか。また、長くなってしまった。
ところで、「責任ある消費」ということで、「…購入は一種の選挙として機能し…どのようなモノやコトが、次の世代に譲渡されていくかを決定することになります。」(247ページ)とあるところ、ああ、吉本隆明の「マスイメージ論」という本があったな、と懐かしかった。
(参考)
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