斎藤幸平氏は、1987年生まれ、大阪市立大学大学院経済学研究科准教授だという。大阪市立大学のフェイスブックでの紹介によれば、アメリカの有名なリベラルアーツのカレッジから、大学院はドイツに渡って、フンボルト大学の博士課程を修了したとのこと。渡米前には、東大の理科2類に半年在籍していたと。専門は、マルクス思想。
マルクス経済学者といえばそうなのだろうが、昔風のマル経の学者というのとは、雰囲気を別にするようだ。
先般、マイケル・ハート、マルクス・ガブリエルらとの対談「未来への大分岐」(集英社新書)を読ませてもらっている。
「はじめに」は、サブタイトルが、「SDGsは「大衆のアヘン」である」といういささか物騒なものであるが、これは、もちろん、マルクス=エンゲルスの「共産党宣言」に出てくる有名な「宗教は大衆のアヘンである」という言葉のモジリである。
宗教はアヘンである。どこかで最近読んだな。
あ、そうか、最近読んだ若松英輔氏の「霧の彼方 須賀敦子」に、シモーヌ・ヴェイユの言葉として、「宗教ではなく、革命こそがアヘンである。」というのが出てきたのだった。そちらの紹介で、少々それに触れて書いているが、なんとかが巨大な象をなでる類の話で、それがいったいどういう意味を持つのか、私として的を射た話ができたわけではない。ヴェイユは、カトリックの思想家なので、そういうのは当たり前だということでもある。いずれ、どっちが正しいとか決着がつけられるような話ではない。それぞれの文脈を読みとりながら、それぞれの含意を学ぶということが必要なはずである。
さて、SDGsというのは、国連が掲げる「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」のことである。
「かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。
アヘンに逃げ込むことなく、直視しなければいけない現実は、私たち人間が地球のありかたを取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということだ。」(4ページ)
人類は、地球を〈取り返しのつかないほど大きく変えてしまった〉。地球のサイズに比べたら、人間はほんとうに塵以下の大きさであるし、数十億人の人類が集まったって、モノの数ではない、と、子どもの頃、私たちは感じていたはずだ。それがいつの間にか変質していた。人類が善なるものとして偉大だという意味ではなく、まったく逆に、地球環境に不可逆な害悪を及ぼすほど大きくなってしまった、のさばってしまった、ということである。
「人間の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世(ひとしんせい)」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。」(4ページ)
地質学的な年代の尺度において、地球に対して人類の存在が大きな影響を及ぼしてしまう時が来るなどということは、まったく想像の及ばない想定外の事態であった。SFの夢物語ではあったにしても。
そしてそれは同時に、人類の生存基盤に巨大な悪しき影響をもたらしつつある。
「近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基礎を切り崩しつつあるという事実である。」(5ページ)
この新書は、人類が、そういう危機にどう立ち向かっていくべきなのか、そういう大きな問題を論じた、非常に構えの大きい書物である。私たちに、もういちど、大きな物語を思い出させてくれる、そんな書物である。
「本書はそのマルクスの「資本論」を折々参照しながら「人新世」における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない。一五〇年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を「発掘」し、展開するつもりだ。」(6ページ)
これは、旧来のマルクス主義を説く本ではない。昔ながらの社会党や共産党支持者を相手にした本ではない。まったく新しいマルクスの読み解きによって、マルクスなど読んだことのない人びと、あるいは、マルクスなど時代遅れの役立たずと決めつけている人びとにマルクスを届けようとする本である。現在の世界の、現在の地球の、そして、現在の日本の行き詰ったような状況に風穴を開けていこうとする試みである。
ところで、SDGsは、何が問題か?
斎藤氏は、「世界システム論」を提唱したアメリカの社会学者・歴史学者であるイマニュエル・ウォーラーステインを引き合いに出す。
〈グローバル・サウス〉というのは、地球上の経済格差などの南北問題の南である。対して、欧米や日本は〈グローバル・ノース〉というらしい。
「ウォーラーステインの見立てでは、資本主義は「中核」と「周辺」で構成されている。グローバル・サウスという周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。労働力の「不等価交換」によって、先進国の「過剰発展」と周辺国の「過小発展」を引き起こしていると、ウォーラーステインは考えたのだった。
ところが、資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たな収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。…利潤率が低下した結果、…「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。」(31ページ)
今のところ、欧米とアフリカには、非常に大きな格差が残っており、中国やインドは国内にまだ大きな格差があるわけで、当面、そこに成長へのタネは残っているともいえるわけであるが、資本主義の収奪の魔の手は、すでに到達してはいるわけである。
資本主義の終焉は、ある人びとにとっては、経済活動の終焉としてまさに世界の終わりを意味するのかもしれないが、また別の人びとにとっては、自分たちの生存の継続にとって、格差の是正のために、また違う経済システムの可能性の始点として喜ばしきことと感じられるのかもしれない。だがそれは、ことの一面でしかないと齋藤氏は言う。
資本主義は、フロンティアの消滅をもたらすだけでなく、人間が生きていける基盤としての地球環境自体を破壊する行為であるというのだ。一つの経済体制の終焉のみでなく、地球環境の消滅をもたらす。
「もう一方の本質的側面、それが地球環境である。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。」(31ページ)
「先進国の人々が大きな問題に直面するころには、この惑星の少なからぬ部分が生態学的には手遅れの場所になっているだろう。資本主義が崩壊するよりも前に、地球が人類の住めない場所になっているというわけだ。」(51ページ)
つまり、フロンティアの消滅によって、資本主義がいわば自然に消滅するのを待つのでは間に合わない。人類の自発的な意思でもって資本主義を終わらせなければ、人間の住める場所としての地球は、その前に消滅してしまう、ということである。
しかし、資本主義を終わらせなくとも、地球環境の保全に取り組んでいけば、人類は生き延びていけるのではないかという希望を持つ人々が、少なからず存在し続けている。むしろ、ほとんどのひとは、そんな希望を持ち続けているのかもしれない。
そこが問題である、と氏は指摘するのだろう。
このあたりの第2章は、「気候ケインズ主義の限界」と題されている。
〈気候ケインズ主義〉とは、1920年代の世界恐慌に対する対策として打ち出されたアメリカのニュー・ディール政策の理論的裏付けとなった経済学者ケインズにちなみ、現今の資本主義の危機に際して新たな需要を生みだそうとする考え方である。グリーン・ニューディールという言葉も使われる。
「気候ケインズ主義が与えてくれるのは、気候変動を好機にして、これまで以上の経済成長を続けることができるかもしれないという「希望」である。別の言い方をすれば、気候ケインズ主義に依拠した「緑の経済成長」こそが、資本主義が「平常運転」を続けるための「最後の砦」になっているのである。」(60ページ)
「その「最後の砦」の旗印になっているのが、「SDGs」だ。」(61ページ)
〈持続可能な開発目標〉を掲げることで、実はとっくに終わっているべき資本主義が無暗に延命してしまう。人々が、エコバッグを使うとか、電気自動車に乗るとか、環境にやさしい取り組みに参加している満足感を得てしまうことで、資本主義の延命に加担してしまっている。
ということで、SDGsは、大衆のアヘンだ、ということになる。
斎藤氏は、最近のアメリカの若者たちが、そのあたりの消息に気づき始めているという。
「一方、海外でサンダースらの「左派ポピュリズム」を支えたのは、日本の反緊縮を唱えている人々よりもさらに若いミレニアル世代やZ世代である。そして、彼らのはっきりとした特徴は、環境意識が極めて高く、資本主義に批判的だということだ。「ジェネレーション・レフト」と呼ばれるほどである。実際、アメリカのZ世代の半分以上が資本主義よりも社会主義に肯定的な見方を抱いている。」(122ページ)
バーニー・サンダースは、今回の米大統領選で最後まで民主党の候補者の座を争った上院議員である。
〈定常型社会=持続可能な福祉社会〉を唱えた広井良典、経済思想家の佐伯啓思も批判的に取り上げる。
「広井や佐伯によれば、資本主義的市場経済を維持したまま、資本の成長を止めることができるというわけだ。行きすぎた資本主義は問題だが、ソ連崩壊後に「社会主義」に拘泥すべきではない。社会民主主義的な福祉国家政策によって、新自由主義の市場原理主義を再び飼い馴らそう。そして、そこに持続可能な理念を加えよう。そうすれば、脱成長・定常型社会への移行が可能になるというのである。」(128ページ)
さらに、旧ユーゴスラビア、スロベニアのマルクス主義哲学者スラヴォイ・ジジェクの行論に則って、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツの主張を批判する。
「そもそも、歴史を振り返ってみれば、成熟した資本主義が低成長やゼロ成長をすんなりと受け入れ、定常型経済に「自然と」移行していくと、本気で信じることなどできないだろう。…
…そのまま突き進めば、地球環境はますます悪化し、ついには人間には制御できなくなり、社会は野蛮状態へ退行する。」(137ページ)
「「人新世」の時代のハード・ランディングを避けるためには、資本主義を明確に批判し、脱成長社会への自発的移行を明示的に要求する、理論と実践が求められている。中途半端な解決策で、対策を先延ばしにする猶予はもうないのだ。それゆえ、新世代の脱成長論は、もっとラディカルな資本主義批判を摂取する必要がある。そう、「コミュニズム」だ。」(138ページ)
今必要なのは、〈コミュニズム〉である。資本主義の枠内での改革を目指すようなSDGsなどという生ぬるい取り組みでは足りないのだという。
ここで、齋藤氏は、〈コミュニズム〉に〈共産主義〉という訳語は使わない。旧来の、日本の左翼、日本のマルクス主義陣営とは違うということを際立たせたいのだろう。より広い層に自らの立論を届かせたいという思いなのではあろう。
〈コモン〉イムズ、コモニズム、などという呼び方ができるのであれば、そう言いたいというところでもあるだろうか。
「近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えだ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。二〇世紀最後の年にアントニオ・ネグリとマイケル・ハートという二人のマルクス主義者が、共著『〈帝国〉』のなかで提起して、一躍有名になった概念である。
〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵だといっていい。…水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として。自分たちで民主主義的に管理することを目指す。
より一般的に馴染みがある概念としては、ひとまず、宇沢弘文の「社会的共通資本」を思い浮かべてもらってもいい。」(161ページ)
「実はマルクスにとっても、「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかった。彼にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する社会のことだったのだ。
さらに、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉(common)として管理する社会をコミュニズム(communism)として、構想していたのである。」(162ページ)
「ジジェクが言うように、コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みにほかならない。」(164ページ)
「マルクスは〈コモン〉が再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいた。」(165ページ)
〈アソシエーション〉というと、柄谷行人を思い出す。
さて、コミュニズムなどというと、みんな平等ではあっても、生活に必要な物資が常に供給不足で、入手できない。結果として、常に困窮生活を送らざるを得ない、というイメージがある。今の若い世代はよくわからないだろうが、旧ソ連は、パンや、トイレットペーパーだとか下着だとか、食料や生活必需品の入手に、毎日、小売店の前で長い行列を作って待っているような状態であった。社会主義計画経済の失敗として、よくテレビのルポルタージュなどで紹介されていた。(しかし、考えてみるに資本主義の世の中で、今の日本の若い世代の貧困がそれよりマシだなどとは決して言えないだろう。)
むしろ、資本主義の始まる前には、ひとびとはもっと豊かに暮らしていた。共有の〈コモン〉に守られて。そういう世界を取り戻すための〈コミュニズム〉、〈コモン〉主義である。
「…本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであった…。…決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有材だったのだ。…人々は適度に手入れを行っており、また、利潤獲得が生産の目的ではないため、過度な自然への介入もなく、自然との共存を実現していた。」(242ページ)
「ところが、囲い込み後の私的所有制は、この持続可能で、潤沢な人間と自然の関係性を破壊していった。…その分だけ(所有者以外の)残りの人々の生活の質は低下していったのである。」(245ページ)
〈本源的蓄積〉というのは、簡単にいえば、金持ちがもっと金をため込む過程である。ところで、〈本源的蓄積〉とか〈コモン〉とか、直前に紹介した内田樹氏の『日本習合論』でも出てきたばかりの言葉だった。
と、あま、そういうことで、この書物は、資本主義の経済体制によって〈疎外〉され、蝕まれてきた人間の幸福を取り返そうとする企ての書である。若い世代から、こういう思想が生み出されたことは、大変に喜ばしいことと思っている。
以下は蛇足。
さて、人間の活動が地球環境に対して大きくなり過ぎたことについては、遡れば経済人類学の栗本信一郎がカール・ポランニーを引いて説いたこととか、玉野井芳郎とか、人類が、地球の表面の大気圏内でしか生きられないと言った中沢新一だとか、また、マルクスの捉え直しについては、吉本隆明からというべきか、柄谷行人の贈与論とか、こちらも中沢新一とか、柄谷の論をキリスト教を中心とした世界史の中で捉え返そうとした大沢真幸だとか、内田樹や平川克己だとか、若いころから読んできた著作家たちの行論と、この書物において語られていることは、大筋において一致していると私には思われる。アメリカの最近の動向を踏まえているところに、この本の意義のひとつはあると言えるだろう。哲学の國分功一郎氏の語るところや、実は、松下圭一以来の地方分権の行論も、重なってくるはずである。
もう一点。
資本主義を捨てるという議論について、留保しておきたいところがある。
東浩紀氏もこのブログで紹介した「ゲンロン戦記」で、お金による等価交換は、それ自体としては大変便利なもので、誰も不幸にしないと書いていた。(新自由主義)などは、誰かが提唱した〈主義〉であろうが、〈資本主義〉自体は、誰かが提唱した主義ではない。おおざっぱに言ってしまえば、お金の使用、等価交換から、一種の自然的な過程で生み出されここまで成長してしまったものだ。(腫瘍のように、というべきか)。
そこで生じる様々な問題に、人類は様々な歯止めをかけようとしてきた。成功したものもあれば、上手くいかなかったものもあるだろう。(場合によっては、アクセルを効かせたこともあるだろうが。)
捨て去る、も、手なづけるも、革命も改革も改良も同じことなのではないだろうか?
コミュニズムが実現していくとき、地方や下町の中小企業、零細企業は、根本的なところでは、そんなにふるまいを変えることにはならないのではないか?
たとえば、トヨタ自動車や三菱商事、大銀行、電通、そういった巨大企業がそのときどんなふうに変わっていくのか?具体的にどんな手続きで、どんな事務作業でもって、変革されるのか?存続し得るのか、解散せざるを得ないのか?
そういう問題がある、と思っている。まだまだ勉強したいことは多い。
あ、そうそう、若い人には、この『人新世の「資本論」』とあわせて、井出栄策氏らの「ソーシャルワーカー―「身近」を革命する人たち」(ちくま新書)、それと國分功一郎氏と山崎亮氏の対談「僕らの社会主義」(これもちくま新書)を進めておきたい。
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