ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

江國香織の詩集など

2013-04-29 20:33:19 | エッセイ
 妻が江國香織が好きで、古本屋で買った文庫本をいつも読んでいる。妻によれば、江國香織は、夫を愛しているらしい。
 ぼくは、ほとんど読んだことがない。
 小さなぼくたちの家の、リビングもダイニングもキッチンも一緒の部屋で、妻が、ねえ、聴いて、と朗読を始めた。

 すみれの花の砂糖づけをたべると
 私はたちまち少女にもどる
 だれのものでもなかったあたし
 (江國香織、詩集「すみれの花の砂糖づけ」(新潮文庫)冒頭の「だれのものでもなかったあたし」。)

 おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。
 外国映画にでてくる女優さんみたいに。
 でもあのころは
 おっぱいが
 おとこのひとの手のひらをくぼめた
 ちょうどそこにぴったりおさまるおおきさの
 やわらかい
 つめたい
 どうぐだとはしらなかったよ。
 おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。
 おとこのひとのためなんかじゃなく。(18ページ「おっぱい」)

 ああ、これは、とても上等のポエムだね。普通の現代詩とはちょっと違う。ちょっとだけエロティックで、でも、落ち着いた愛のなかにいる。大人向けの絵本にしてもいい。
 それから妻は、もうひとつ別の文庫本「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(短編集、集英社文庫)を手にとって、これ、さっき読み終えたばかり、と言って、解説を読み始めた。
 「泳ぐのに、安全でも適切でもない所に、あえて飛び込んでしまったらどうなるか。そのことについて考えてみる。水面に触れる寸前のとてつもないスリル。水が皮膚を覆い始めた際の心地よさ。けれども…」(222ページ)
 山田詠美の解説を、妻は最後まで読んだ。名文である。ぼくは、このところ小説を、村上春樹と村上龍と高橋源一郎と、鶴岡出身の、ジョイスの専門家の、亡くなった丸谷才一と山田詠美しか読まない。山田詠美が、こんな名文の解説を書くのであれば、そのうち、一冊は読んでみてもいいかもしれない、と思わされた。(もっとも、山田詠美は、どんな文章を書いても名文しか書かない。) 
 「ああ、と私は、この作者の言葉の扱いにひれ伏してしまうのである。細心の注意を払い、美しい細工をほどこした野蛮を文章世界に埋め込める、江國香織は稀な小説家である。」(226ページ)

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