國分功一郎氏は、「まえがき―生き延びた先にある日常」を、こう書きだす。
「本書は研究の記録である。…双方がすでに形成していた考えを持ち寄って開陳し…ているのではない。われわれは二人の間を一つの場所とし、そこに発生してきた考えの行く先を見とどけつつ、それを突き詰めようとしたのである。
…
本書において進められた研究は、ただし、明確な出発点を持っていた。それは熊谷晋一郎さんがこれまでに行ってきた当事者研究についての研究であり、私が著書『中動態の世界』で公表した中動態についての研究である。われわれは二つの研究が共鳴していること、またその共鳴が自分たちのなかで複数の考えに発展しつつあることを感じ取っていた。…われわれは二人の間という一つの場所でそれを言葉にしていく作業を必要としたのである。」(3ページ)
國分氏と熊谷氏の対話が行われた、朝日カルチャーセンター新宿教室における受講者は、スリリングでヴィヴィッドな探求の現場に立ち会ったということになるだろう。受講者からの質疑と両氏の応答の様子も採録されており、立ち会うのみでなく参加もしえたわけである。この書物の読者は、その生成の現場に立ち会いたかったという思いを呼び起こされるものでもあるが、読むことによって、同じ体験を共有できるということにもなるはずである。
【責任の概念の問い直し、応答について】
さて、この書物のタイトルは、『〈責任〉の生成』である。
「この研究は最終的に責任の概念の問い直しへと向かった。…
責任(レスポンシビリティ)は、応答(レスポンス)と結びついている。…応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりというところが大切であって、決まりきった自動的な返事しかできていないのならば、その返事は応答でなくて反応になってしまう。」(4ページ)
責任は応答に結び付く。応答するということは、そこに他者がいるということである。責任は、他者がいて初めて生じるものである。天涯孤独の人間とは、誰にも応答せず、誰にも責任を負わない人間のことである。ひとは、他者の行動や言動に、自分なりの仕方で応える。その応え方は、誰もがみんな同じではありえない。画一的ではありえない。人それぞれ、多様な反応を見せる。(この反応は、画一的な機械的な反応のことではなく、多種多様な人間的反応。文脈的に言えば応答というほうが適切か?人間的な応答に機械的な反応も含み込む抽象的な概念というか、広い意味での用語として用いている。ある学説における専門用語は、一般的な、というか他の人びとの用い方と食い違っている場合が多い。)
ここで、ハンナ・アレントが参照される。
「ハンナ・アレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えた。」(5ページ)
【日常は、生き延びた先にある。】
複数の、多様な人びとと交わること、そこに日常が立ち上がる、という。
「人が周囲から反応のみならず応答を受け取っているとき、そこには日常と呼ばれる光景がある。人が日常を実感するのは、おそらく、周囲から反応だけでなく応答を受け取っているときである。…
その意味で、日常は決して当たり前に存在しているものではない。それはなんらかの仕方で獲得されねばならない。日常は生きることの出発点ではない。それは生き延びた先にある。」(6ページ)
ふつう、日常は、当たり前にそこにあるものである。われわれは、そう思い込んでいる。退屈な日常、そこから抜け出すべき毎日のルーティーン。何も事件の起こらない日常生活において、なんらかの非日常の事件が起こって、そこからはじめて物語が始まる、物語の始まる前提が日常である、いわゆる健常者のわれわれは、そんなふうに思い込んでいる。
ところが、よく考えてみれば、日常は危ういもの、なんとか維持されているもの、なのではないか。誰でもが、当然に前提できるものではない、のではないか。(ここにも、同じ言葉の、意味の食い違いがある。)
「われわれは今、日常が破壊される時代を生きているのではないだろうか。確かに複数の個体が集まって生きてはいるものの、複数性に参加していると感じることが難しくなっている、そんな時代を生きているのではないだろうか。」(7ページ)
これは、もちろん、熊谷晋一郎氏が、脳性麻痺の当事者で、常時、車いすを利用して生活する障害者であるからこそ、前景化する事態ではある。しかし、いわゆる健常者にとっても、種類や程度はそれぞれ違うとしても、なんらかの大きな困難を抱えた社会であり時代であることは同様である、ということである。言うまでもなく、ひとはさまざまな問題を抱えて生きている。
〈日常は、生き延びた先にある。〉
重い言葉である。
さまざまな人間がいて、お互いに応答しあうことで、日常生活が成り立っていく。応答しあうということは責任を持ち合うということである。
國分氏は、先に、「責任(レスポンシビリティ)は、応答(レスポンス)と結びついている」と語ったが、逆に言えば「応答(レスポンス)は、責任(レスポンシビリティ)と結びついている」となる。日常生活は、責任を果たし合ってはじめて成立する、ということになる。
これは、まさに倫理学の課題であろう。そして恐らく、これは実際そのとおりとしか言いようのないことである。
【責任について 免責が引責を可能にする】
私たちは日々、お互いに責任を果たし合ってこそ生き延びていける。
しかし、こう言ってしまうと、この言葉はあまりにも重い。人間みな、この言葉に耐えられるほどには強くないかもしれなない。
最近の〈責任〉という言葉の使い方からいうと、そのほとんどが〈賠償責任〉のことと認識されてしまい、なにか間違ったことをすれば、お金をペイして責任を取らなくてはならない、だから、賠償責任保険に加入しておかなくてはならない、などと、毎日の生活をおっかなびっくり送らざるを得ないようなことになってしまっているかのようである。
それは、まあ、極論ではあるのだが、アルコールや薬物など依存症の当事者というのは、比較して言えば、この日常生活の責任に、あまりに過剰に捉えられてしまった人々とは言えるのだろう。重すぎる責任は担いきれない。
そこで、〈免責が引責を可能にする〉という逆説的な事態が語られる。
「國分 当事者研究において重要な点の一つが、外在化を前提にしたメカニズムの解明ということですね。つまり犯人捜しをしない。そして二つめとして、行為や状況を「現象」として捉えたうえで、その現象の研究成果を仲間に向けて発表する。発表を通じて自分がいったいどういう困りごとを抱えているかを仲間と共有し、なぜそうなっていりのかを共に研究、解明していく。
…
けれども不思議なことに、一度それらの行為を外在化し、自然現象のようにして捉える、すなわち免責すると、外在化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくるのです。…とても不思議なことですが、一度免責することによって、最終的に引責できるようになるのです。」(43ページ)
現在の責任の捉え方は、意志という概念が誕生して、それと連動するように生み出されたと國分氏は語っている。その昔、ギリシャで中動態が衰退し、能動態―受動態の図式が生じるのだが、そのころのギリシャには〈意志〉という概念がなかった、その後に〈意志〉という考え方が生じたのだと。
〈責任〉―〈能動〉―〈意志〉と、原因に遡るかのように話が繋がっていく。だれかが、自分の意志で能動的に行動を起こし、その結果、そのひとが責任を取る、ということになる。なにもないところで、ひとが自由に意志して行動を起こす、だから責任はその行動を起こした人に帰するのだ、と。しかし、その考え方は違っている、と國分氏は言う。責任の意味が書き換えられなければならないと言う。
「國分 行為の源泉としての意志という考え方は、さらなる問題を引き起こします。…意志に先行する原因は存在せず、何もないところに意志がむっくりと現れて行為を生み出したと言うことです。」(110ページ)
「しかし、実際には、人間の精神のなかにはそのような無からの創造などあり得るはずがありません。われわれには過去があってそれに影響されているし、外界からも完全に隔絶することなどはあり得ないわけですから、つねに外部からの刺激を受け続けている。ピュアな源泉である、無からの創造としての意志というのは不可能なのです。何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない。にもかかわらず、僕らはこの意志という観念を日常的に利用している。」(111ページ)
「われわれはそのとき、単に因果関係を見ないようにしているだけなのです。あるいはその因果関係を無理矢理どこかで切断しているのです。」(112ページ)
現在のアメリカに典型的な訴訟社会的責任の取り方、取り方というよりは負わせ方というべきだろうか、勝った、負けたで巨額の賠償金を取り立てようとする責任の負わせ方。現在の日本もそんな責任についての捉え方で、深く傷つけられてしまっているというべきなのだろう。そうではない、新しい、というよりは本来の〈責任〉というものを考えていかなくてはならないと、この書物は語っている。
國分氏が『中動態の世界』で提起した問題は、射程が深いと思う。
【消費と浪費という用語について】
ところで、國分氏の語る〈「消費」と「浪費」の区別〉について、私として、どうにも腑に落ちないところがある。
〈依存〉とか〈過食〉について対話するところであるが、
「熊谷 國分さんがすでに『暇と退屈の倫理学』で書かれている「消費」と「浪費」の区別がここでも役立ちます。単においしくて食べ過ぎてしまうのは浪費ですが、摂食障害としての過食はおそらく消費に近い。…
國分 過食しているとき、人は食べ物を味わっていない。つまり物を受け取っていない。だから止まらないわけです。逆説的ですが、これは僕の区別では消費に限りなく近い。浪費というのは贅沢することですが、贅沢するとき、人は物を受け取り味わっていますから、そのうちに満腹感が来て終わるわけです。」(274ページ)
この行論は、まさにその通りだと思う。ここでの「消費」と「浪費」は、國分哲学独自の術語であると捉えれば、何の問題もない。哲学的な術語は、日常語とは別の、厳密な定義にもとづいて使用されるものであるから、ふつうの語感と食い違っているからと言ってとやかく言う筋合いはない、といえばそのとおりである。
しかし、一般には消費は、人間の生存や生活に役立つものを買い求め、摂取し使用するものであり、浪費は、必要以上に無駄遣いすることである。この二つの言葉の國分哲学的使用法は、まさに、一般的な使用法とは逆立している。
ここは、現代の資本主義社会における消費が、生存の必要を超えて、お金の増殖の手段として機能してしまっている事態に対する批判であることは言うまでもないだろう。ボードリヤールの記号消費とか、柄谷行人の市場の等価交換批判とかいうあたりを読めばそんなことが書いてあると思うが、現在の消費というものの突然変異的な増殖というか、肥大というか、それはたしかに異常なものである。異常なもののほうが大きくなって、本来の必要な範囲での消費を覆い隠してしまったような事態。そして、やがては人間社会を食いつぶす。そういう、悪性新生物のような現在の消費はたしかに、根本的に批判すべきものである。
國分的な「消費」と「浪費」は、〈現在における異常に肥大した消費〉と〈生存に必要な本来の消費〉の言いかえと考えるべきなのではないだろうか?
ただ國分氏がなぜ「浪費」という言葉を使ったのか、もういちど『暇と退屈の倫理学』を読み直して、その含意を確認したいとは思う。確か、ネイティブアメリカのポトラッチのことも書いてあったな。経済成長に対するアンチテーゼの意味合いもあっただろう。そうだ、この際、新たに増補版の方を手に入れて、読んでから、このブログに感想をアップするべきか。前に読んだのは、このブログに読書の記録を書き始める前だった。
【國分氏の哲学と熊谷氏の研究】
熊谷晋一郎氏は「おわりに」にこう記す。
「國分さんが2011年に出版した『暇と退屈の倫理学』を読んで以来、今に至るまで、私が考えてきたことや書いてきたことのあらゆる場所に、國分さんの哲学は深い影響を与え続けている。國分さんの言葉は、私のなかでいつも疼き、次の思考や実践を促し続けてきた。」(424ページ)
私にとっても、『暇と退屈の倫理学』であり、『中動態の世界』であり、まさしく「私が考えてきたことや書いてきたことのあらゆる場所に、國分さんの哲学は深い影響を与え続けている。國分さんの言葉は、私のなかでいつも疼き、次の思考や実践を促し続けてきた。」わけである。
ここでは、残念ながら熊谷晋一郎氏の論については直接触れることができなかった。最近のこのブログ、どれもこれも長すぎると反省している。いったい、だれがこんな長文に付き合ってくれるのだろうか?それはさておき、熊谷氏の当事者研究の研究も、私に「深い影響を与え続けている…」ものであることは言うまでもない。
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