いま、現役の哲学者といえば、まずは國分功一郎氏と言って間違いないというべきだろう。世に、少なくとも大学の数だけは哲学教師のポストはあり、その数だけの哲学者は存在するわけではあるが、ここまで刊行した哲学書が広く世に受け入れられている点で、國分氏を最右翼というべきだろう。
もちろん、鷲田清一氏はいるが、禅僧のような侘び寂びの佇まいにも達して、現役と言った時の若さ、漲る力という意味では、國分氏、ということになるのではないか。
現代の社会の、政治、医療福祉まで含んだヴィヴィッドな問題点の把握、提示、哲学が問題点をどう把握するのか、問題点に対してどう対応していくのかということにおいて、國分氏ほど正確につかみ取ることができる著述家は存在しないというべきだろう。
私がそう思うのは、氏の取り上げるテーマが、驚くほど私自身の関心領域と重なっているということもあるには違いない。地方自治であり、コミュニティであり、当事者研究やオープン・ダイアローグであり、そのあたりを哲学から見通す、というところ。
で、今回は、『原子力時代における哲学』である。
突然、この本の紹介を離れて私の見解を述べてしまうとすれば、原子力の利用については、武器としては言うまでもなく、平和的であろうが、実はすでに破綻しているというべきだろう。原子力への人類の夢はもうすでに終わっている。いまは、残務整理のように、一部のいまだ原子力の夢から覚めたくない人々のために冷却期間を置いているに過ぎないのだと思う。生態学的にはいうまでもなく、経済学的にも終わっている。非人道的な代物である。
なんといえばいいか、経済学的な、というか、経営学的なというか、バランスシートのつじつま合わせ、帳簿上の帳尻合わせ、リーマン・ショックとか、コロナ・ショック並みの経済上の打撃をいかに少なく済ませるかのために、政権が死に体のまま延命させているに過ぎないのだと思う。突然死でなく、安楽死させたいとか願いつつ、まあ、あとは延命装置を、いつの時点でスイッチオフするかの問題でしかないはずだ。
ただ厄介なのは、原子力利用の夢というのは、資本主義経済の夢と同じものであるかもしれないということだ。原子力を終わらせるというのは、資本主義経済を終わらせることと同じ意味なのかもしれないということだ。
資本主義経済を終わらせる。
かといって、昔のような社会主義革命を起こすべきだとかいう話にはならない。当然のことである。
資本主義経済という言い方ではなくて、新自由主義とか、グローバルな市場経済至上主義とか、マネー資本主義を終わらせると言った方が受け入れられやすいか。資本主義経済一般と、グローバルな市場経済至上主義というのは、同じものなのか、別のものなのか。
この先の議論は、これまでも柄谷行人とか、神野直彦とか、中沢新一とか、平川克己とかいろいろ読みながら考えてきたところであるが、ここでは先送りして置く。
ただ、そうだな、リーマン・ショックがあっても、東日本大震災があっても、人類は生き延びている。私たちは生き延びている。そこには人類の叡智があり、人々の努力があるから、なのだろうが、いっぽうで、リーマン・ショックというのは実は帳簿上のショックに過ぎないのではないか、という疑念がある。自然災害とは違って、金融危機というのは一種の思い込みに過ぎないのではないか、と。もちろん、だからといって誰も何もしないでほっとけばいいというのではなく、政府が、帳簿上の処理をきちんと行うことが肝要である。ま、これは、私の仮説。とりあえずは妄想と思ってもらってもいい。「市場のマインド」などというつかみどころのない空気感と似たり寄ったりの代物である。
と、以上は私の私見ではありつつ、実はこの書物の内容ともリンクしたものでもあるはずである。というか、むしろこの本を読み始める前提ということになるか。
この本は、その先のことを問題にしている。國分氏のこの本を読んでいただければ一定の道筋は見えてくるということかもしれない。
さて、この書物は、「ハイデッガーを軸に繰り広げられる、技術と自然をめぐる壮大な考察」である。帯にそう記されている。
自然というのは、人類が生まれ落ちたこの宇宙、地球、特にその表面の地下数キロメートルから地上数キロメートルの範囲のことである。地球の表層のことである。技術というのは、人類がその自然の中で、自然の力をうまく引き出して利用しながら生き延びてきたその技のことである。(このあたりは中沢新一が的確に述べている。)
だから、「技術と自然」というのは経済のことである。経済というのは、人間が生き延びていくための仕組みのことに他ならない。「技術と自然」の問題とは、端的に「経済」の問題である。経済とは、お金のことではない。お金はモノやサービスが、うまく行き渡るための手段であり、その限りにおいて経済において役割を果たす手段となっているということである。お金の増殖などは、経済の目的でもなんでもない。「利潤の追求」などは、決して経済の目的たりえない。「株式会社の目的は利潤の追求である」などというたわごとはいい加減口にしないでいただきたい。株式会社を含む企業の役割とは、人間社会に必要なモノやサービスを、その得意分野において提供することでしかないはずである。
こんなことはあらためて言うまでもない当り前のことで、言うこと自体が間抜けなことに見えてしまう。だが、世の中の多くの人々が勘違いしている。利潤の追求、投資のリターンこそが経済の目的である、さらには人が生きている目的であると。
何か別の手法でもって、衣食住が満たされ、芸術が享受される限りは、お金など存在する必要がない(ここでの芸術とは、『僕たちの社会主義』で國分氏が山崎亮氏と語らう意味でのもの)。ただし、衣食住と芸術の充足のためにお金があったほうが便利だったからお金が存在し、使用され続けてきたに過ぎない。また、お金以上に便利なものはないから使われ続けたに過ぎない。
もちろん、欲望の権化としてのお金という問題はある。お金が無くなればすべて解決などという簡単な問題でもない。むしろ、お金が無くなれば、すぐに多数の人間が命を落とすことに直結する。厄介な代物である。「株式会社の目的は利潤の追求である」などというのは誤解でしかないのだが、その誤解には理由があり、利潤の追求もやればできてしまうのも確かである。そういうふうに人間が行動してしまう、そのように駆動されてしまうというのも確かなことである。「人生の目的はお金儲けです」などと思い込んでしまった人も多数いるわけである。困ったことである。
繰り返すが、お金とは便利でかつ厄介な手段に過ぎない。決して目的ではありえない。(というか、もう少し厳密にいうと、「便利でかつ厄介な手段」のことをお金と呼んだということではあるのだが、ここは簡便に済ませる。いずれ「目的」ではなく「手段」であることに間違いはない。さらに言えば、目的だとか手段だとかいう問題設定の問題というのがあるのだが、そのあたりは見田宗介とか、國分氏の『中動態の世界』など参照。)
中沢新一という人は、私が考えるに非常に正しいことを常にずばりと正しい言い方で言い当てることのできる人である。本を読むたびにそうそうその通りとひざを打ちながら読み進めることになる。端的に言い切ることのできる人である。口に出してしまえば身もふたもないようなことでもある。悩む必要などひとつもないように言い当てられてしまう。
仏教の言い方を使えば、これは、「菩薩」ではなくて「如来」だ。悟りを開いて向こう側に行って仏様になってしまった「如来」。なんといってもカッコがいいし、スタイリッシュである。仏様になれる力があるのに、その手前でこちら側に帰ってきてしまう菩薩ではない。西方浄土に住まう「如来」である。
この伝で言えば、國分功一郎氏は、菩薩であると思う。我々と一緒に悩もうとする。悩んでくれる。(スマートでカッコいいけれども、スタイリッシュというとちょっと違う感じ。ハイ・ファッションではなく、カジュアルである。)
今回、この本を書くにあたって、國分氏は、中沢新一の『日本の大転換』という書物も参照している。
「なぜ原子力を使ってはいけないのかという問題について、僕が考える限り決定的な議論をしているのが中沢新一さんです。中沢さんは、二〇一一年に『日本の大転換』という非常に重要な本を出されました。…ごく短期間だったために、確かに批判を受けるような議論も含まれていましたが、ここには原子力を考えるうえでの多くのヒントが記されています。」(259ページ)
國分氏は、さらに、中沢新一と対談を行い、『哲学の自然』という対談集をまとめている。
精神科医で、精神分析家のラカンに拠る評論活動を行い、最近では「オープン・ダイアローグ」の紹介者として活躍している齋藤環氏とも対談したという。
「そうすると次の問題は、なぜ人間は「贈与を受けない生」を欲望してしまうのか、となります。…そんな折、先述の『原発依存の精神構造』を出版された齋藤環さんと対談する機会があって、齋藤さんから「贈与を受けない生」への欲望はナルシズムの問題と結びついているのではないかというヒントをいただきました。」(274ページ)
次の問題というのは、原発への欲望が「贈与を受けない生」への欲望であると述べたその次、ということである。それは限りない利潤の追求とか、ひと言呪文を唱えれば何でも手に入れられる魔法への憧れと同じものであるに違いない。「ナルシズムの問題」というのもそのあたりのことだ。
この本の紹介としては、ハンナ・アレント、その最初の夫ギュンター・アンダース、そして、ハイデッガー(大学生アレントの愛人であったという)に触れた部分から取り上げていくのが正しい道筋ではあるだろうが、そこは、実際に書物に当たっていただきたい。
ハイデッガーは、私が高校生の時、岩波文庫版の『存在と時間』を買って、ほとんどわからないままに読み通し、大学生になって再度読んで多少は分かったところもあるかもしれないというレベルではあったが、私の哲学体験の入門のところに位置した偉大な哲学者である。その後、敬して遠ざけてきたというべきなのだが、ここで取り上げられた対話編は、ずいぶんと興味深い書物であるようだ。(残された人生において読むべき書物のリストに加えられた感じ。)ソクラテスの事績としてプラトンが記録した対話編以来、西洋の哲学は間違った方向に進んでしまったみたいな行論であるらしい。人間の意志を問題視する議論。これもまた、國分氏が『中動態の世界』で解き明かした世界内での出来事である。
言うまでもないことであるが、この書物『原子力時代の哲学』には、ハウツー本に書いてあるような解答はない。どう考えていけばいいのか、という道筋についてヒントはあると言えるかもしれない。永遠に疑問を抱き続けることの重要性が説かれているのかもしれない。それは確かにそうである。
かといって、原発問題が永遠に未解決でいいというわけにもいかない。そろそろ原発依存の精神構造から脱却すべきタイミングであることにも間違いはないわけである。原発依存の経済構造からは脱却すべきであることは、実は、この本以前に結論が出ていると言える。しかし、そこからさらに先を考えることの必要性。原発依存の精神構造から脱却するに、安易に解答を出さないという仕方で考えることの重要性を語っているというべきだろうか。
目的のために手段があるという思考、何ごとかを意図して実現しようとする能動的な思考の限界をハイデッガーとともに解き明かした書物であるのかもしれない。
というところで、今回も、この書物の適切な紹介とはならなかったかもしれない。私の自由な感想を書き連ねただけで終わったようだ。ただ、この本は、読むことによって考えることについて触発される書物であり、私もまた、触発されて考える試みをなしてしまったということにもなるだろう。うまいこと乗せられたわけである。