斎藤環『原発依存の精神構造ー日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』(新潮社)と中沢新一『日本の大転換』(集英社新書)についてのメモ
(ブログ掲載にあたっての注;2012年11月15日(木)のツイートから。このブログで書評を始める前のものを一連にまとめる。当時の感想である。では、現時点で私がどう読むかということは、両方の本をもういちど読んだうえでないと言えない。なんかちょっと違うことを書きそうではある。実は、國分功一郎氏『原子力時代における哲学』を読み終えたところで、その感想を書くにあたっての関連として掲載しておく。)
(斎藤環氏の『原発依存の精神構造』には)ドゥルーズ、浅田彰、ラカン、デュピュイ、アンダース、村上春樹、東浩紀、和合亮一、高橋源一郎、雨宮処凛、開沼博…沢山の学者、作家が参照されている。鉄腕アトムと怪獣ゴジラ。原子力にまつわるファンタジー。
『原発依存の精神構造』」は、しかし、もうひとつ、明確に、分析してくれなかったみたいな。中沢新一について、原発技術の「ブリコラージュ」とか「一神教的技術」とかの言葉を批判的に語っているが、これは誤読というか、批判としては的外れになってしまっていると思う。
私が読む限り、斉藤環氏が言おうとすることは、中沢新一の「ブリコラージュ」とか、「一神教的技術」ということばとそんなに相反することではないと思う。
中沢新一は、なんというか、ごくあっさりとひとつ階層が上のレベルの議論をしてしまって、言われてみれば全くその通りと言わざるを得ないのだが、そのもの言いが反感を買ってしまうところはあるのだと思う。現今の経済の真っただ中で足掻いている人に対して、その経済の限界をあっさり語るみたいな。
斎藤環氏が、中沢新一氏のことを批判的に語るのは、そのほうがカッコよく見えるからだ、というわけではないだろうが。
「原子炉を前にして、日本の科学者…は、現代科学には不釣り合いな『ブリコラージュ』の方法によって、苦しい対処に追われていた。おむつの材料…を…転用する…方法は、…『野生の思考』の気の利いた活用として称賛」もありうる「が、原発事故…にはふさわしくないもの」
以上は、中沢新一の『「日本の大転換』」からの斎藤環氏の引用。(文意が通るように留意しつつ一部削除)(原発依存の精神構造107ページ、『「日本の大転換』」も本棚にあるがページ数は省略。)
文脈的には、端的に紹介すればいいところであり、批判的に述べる必要性はないと思う。皆さんどう思いますか?
(以下は、引き続きのツイートに書いたことだが、直接には、二つの書物に関することではなかったと思う。ただし、広い文脈上は関連はある。)
ぼくらが給料で食い繋いでいて、田畑も漁場もなく、とりあえずは自給自足の術がない、というのは相当大きな問題だ。自分で食料を生産、獲得できず、お金の形で稼ぐ他ない。この現状の中で足掻いている。自分で食料を生産することが問題解決の最良の手段だとしても、なかなか簡単にはねえ、ということ。
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