平川克美である。ことしの6月初版。ミシマ社のシリーズ「22世紀を生きる」の第3弾ということ。
ミシマ社という出版社は、一点一点の手作り感があって、好感が持てる。折り込みのミシマ社新聞というのも、手書き。「小商い」的な出版社のようだ。
「22世紀~」のシリーズ、第一弾、第二弾という既刊も面白そうなので後で読んでみようかと思う。バッキー井上というひとと、安田登というひとの本らしい。ちなみに、第四弾は、内田樹師である。
平川克美と言えば、「小商いのすすめ」、これは名著。2012年2月の出版。「株式会社という病」とか、「移行期的混乱」とか。
そして、「『消費』をやめる。」
このところ、経済ということに関して私が言いたいことが、まさしくそのままここに書いてある。
「わたしは、これまでの四十年近い会社人生のなかで、社員数が六〇人ほどの会社を経営したり、三〇〇人以上の会社の役員をやったりしてきました。会社をつくり、それを大きくすること、仕事の仲間が増えていくことは楽しいことでした。うまくいったこともありますが、うまくいかなかったこともたくさんあります。」(1ページ はじめに)
幼い頃からの同級生内田樹と共に、20代で翻訳会社を起こした起業家、アメリカ、シリコンバレーでの起業に関わったITベンチャーの寵児であった平川である。(理念だとか理想論だけの、世間を知らない学者ではない、という言いかたもできるところだ。)
しかし、
「最近はうまくいかないことが多くなりました。以前ほどお会社を大きくすることに充足感を得られなくなったといったほうがよいかもしれません。」(1ページ)
それはどうしてか。
たとえば、こういうところ。
「コンビニエンスストアで黙ったまま商品をカウンターに置くと、レジに値段が表示されて、無言のまま商品が手渡される。わたしは店員さんの顔を覚えていないし、店員さんのほうもわたしの顔を覚えていない。お互いが、匿名の売り手、買い手として商品交換をしている。なんだ、これは現代の沈黙交易じゃないかと思ったのです。」(5ページ)
沈黙交易。レヴィ=ストロースなど、文化人類学の言葉。
「歴史的な沈黙交易は、文化も言葉も異なる共同体と共同体の境界で始まりました。わたしはこんな空想をしてみたのです。わたしが生きている共同体と、店員さんが生きている共同体は言葉も文化も異なる別々の共同体だ。その二つの共同体をつないでいるのが、レジカウンターであり、おカネという唯一の共通言語だ。わたしたちは、沈黙交易から始まる商品交換の歴史の最終段階にきて、再び沈黙交易のようなことをしている。一度目は奇跡だったけど、二度目はほとんど喜劇として。」(5ページ)
長い引用になったが、これは、とても重要なことを言っている。
われわれは、伝統的な共同体が崩壊した後の世界に住んでいるのではないか?われわれはみな、共同体を失い、ひとりひとり孤絶した、孤独な世界に住んでいるのではないか?
日本の街の中にあるコンビニエンスストアのレジカウンターを挟んで、向こうとこちら、異次元の世界。あたかも別の世界。同じ店内にいるのに言葉を交わすこともなく、物事が進行する。そこで交わされるのは言葉ではなくて、おカネだ。おカネさえあれば、それなりのコミュニケーションが交わされ、日常生活に必要な活動が進行する。
しかし、それでいいのか?
「おカネはとても大切なものだが、それよりももっと大切なものがある。この言いかたの中には、論証できるようなロジックがあるわけではありません。」(29ページ)
おカネよりも大切なものがある。それは言うまでもないことだ。おカネはあくまで手段に過ぎない。生存に、生き延びていくために必要な衣食住、さらに生存のみでない生活に必要なさまざまのもの、それらを入手するための手段がおカネだ。
広くいえば、生活に必要なさまざまのものを流通させるための手段がおカネだ。
ひっくり返して言えば、交換の手段をおカネと呼ぶに過ぎない。
しかし、そのおカネというもの。
「おカネが万能になっていった理由のひとつには、おカネが因習的な人間関係を清算する手段でもありえることがわかってきたからでしょう。…(中略)…贈与的、互酬的な世界は、それはそれで鬱陶しいものだったわけですが、おカネを媒介とする等価交換の世界では、おカネが容易に人を結びつけたり、切り離したりするようになりました。」(29ページ)
われわれは、もの心ついてこの方、わずらわしい共同体をこそ、脱出しようともがいて生きてきた。「因習的な人間関係を清算する」ことを目指して生きてきた。
戦後われわれは違う選択肢も持ち得たのではないか?
共同体をもっと大切にする、共同体を解体させないような生き方を選択できたのではないか?ひとりひとりばらばらに個人で生きていくような社会ではないような暖かい社会を作りえたのではないか?そういう社会を意図して作り上げることができたのではないか?
いや、そうではないのだという。
「戦後に起きたこうした変化は、ほとんどのものが『自然過程』というべきことがら」(32ページ)なのだ。
「消費化された社会、貨幣万能の社会、孤立化した都市社会とは、個人が個人として自由や多様性を求めた結果です。/多様性を求めて自由になろうとした結果、多様でなくなってしまった。…(中略)…これは、わたしがいつもいうことですが、人間というのは、自分が意志していることと別なことを実現してしまう動物です。」(34ページ)
これはなんという悲劇だろう。つまり、はたから見れば喜劇にほかならない。
多様さを求め、自由を求めた結果、皆が不自由になり、一様になってしまうという逆説。
「この単純なことがわからないといろいろおかしなことを言いだす人がいます。たとえば英語をやればグローバルな人間が出来上がるとか、愛国教育をすれば愛国心のあるものが育つといった単線的でバカバカしい考え方です。思ったことがそのままダイレクトに実現するというリニアな世界観しかもっていないと、こういうことになるわけです。」(34ページ)
そして、この本で、平川は、生まれて以降の彼自身の人生と重ね合わせて、日本の社会の展開を語る。戦後復興、高度成長、バブル、その崩壊、そして、縮小へ向かう現在。
「いろいろお話してきましたが、戦後の日本の歴史は「労働の時代」から「消費の時代」へと大きく転換する百年単位のプロセスだったといえるだろうと思います。それはまた、人間が自分の身体を使ってモノをつくり出し、身体実感によって生活の思想を作り出していた「身体性の時代」から、おカネによって何でも手に入れることのできる「おカネ万能の時代」へのプロセスでもありました。」(237ページ 結語に代えて)
縮小へ向かう、あるいは、成長しない現在においても、「おカネ万能」、「終わりのない成長」へのほとんど信仰とも言うべき思い込みは、なかなか払しょくされることがない。
しかしながら、商店街におけるような、身近な顔の見える関係、そこに平川は可能性を見いだしていく。
「喫茶店にも、銭湯にも何も生産的なことはありません。しかし、そこで毎日身知った顔に囲まれて、お互いのアイディアの糊代を出し合っているうちに、ひとつの「場」が生まれてくるのが実感できます。ひょっとしたら、こういった形で、地域のなかに、近未来を暗示するような愉快な共同体が生まれてくるのかもしれません。」(241ページ)
ふむ。
気仙沼のような小都市には、たまたま周回遅れでということでしかないのだろうが、こういう場が、現に存在しているのではないか?
ところで、帯の「『経済成長なき時代』のお金の生かし方」というキャッチコピーは、ミスリードだな。「お金の生かし方」にそんなにページを割いているわけではない。むしろ、「いかにお金のみに頼らないか」について書いている本というべきだろうな。
でも、お金に固執して「お金の生かし方」を常に忘れず、そんなことばかり考えて生きているひとにこそ、是非読んでほしい本である、というのも確かなことではある。
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