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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

村澤真保呂、村澤和多里 中井久夫との対話―生命、こころ、世界― 河出書房新社

2019-01-18 22:42:06 | エッセイ

 中井久夫は、私にとっても、このところ最重要の著作家となりつつある。実は、まだ、ご本人の著作には当たれないでいる。雑誌に掲載された単発の論考は別として。

 KAWADE夢ムックの「文藝別冊 中井久夫 精神科医のことばと作法」を読んだ以外は、齊藤環氏、名越康文氏の著作等でその名を記憶にとどめていた。もっとも、現代詩手帖でも、精神科医としての中井氏と明確に同定できないまま目にはしていたはずである。

 この書物を読んで、なおさら、見習うべき先達との思いを深めている。

 中井久夫は精神科医であり、詩の翻訳家でもあり、さらに、精神の病理についてのみならず、現代のすぐれた思想家であるというべきであろう。

 村澤真保呂氏は、龍谷大学社会学部で、専攻は社会思想史、村澤和多里氏は、札幌学院大学人文学部教授で、臨床心理士とのこと。このおふたりは兄弟であり、学究として中井久夫を研究しているという以上に、幼いころから父親の親友として、成長の過程において、その人物、言葉に触れ続けてきた人物たち、でもあるとのことである。

 お二人の専門分野が、中井久夫の業績を研究紹介するにあたって最適の組み合わせであるということでもあるが、むしろ、お二人がそういう分野を選択したことは、中井久夫の深い影響のもとに、だったと言えそうである。「中井久夫との対話」という書物を、このお二人で編むということは必然であった。

 

 

 「はじめに」のなかにこう記されている。

 

「筆者たちが生まれ育った一九七〇年代から九〇年代初頭にかけては、日本の精神医学が分裂病(現在は統合失調症)の理解を中心に大きな発展をとげた時代である。七〇年代はまだ、「分裂病」が治療困難な謎に満ちた病気とみなされていた時代で、その謎を解明し、治療を可能にするために、多くの精神科医たちが果敢に挑戦した。そのために脳科学や神経科学だけでなく、歴史学や人類学、社会学、哲学などのあらゆる学問が動員され、学際的な観点から研究が進められた。そこから飯田真や安永浩、木村敏、河合隼雄、中井久夫をはじめとする精神科医や心理学者たちが多方面から注目され、有名になっていった。」(7ページ)

 

 私が、市役所で生活保護のケースワーカーを務めていたのは、1991年からの6年間で、いまから30年近く前のことになる。気仙沼市内に2か所ある精神病院の入院患者も、生活保護の受給者として、相応の人数がいた。受給者のみならず、両病院の医師と、医療ソーシャルワーカーとは、病状調査のため、定期的に面談する機会があった。

 たった30年前ではあるが、60年代から数え始めて現在に至るほぼ60年という期間からみると、半分近いということにもなる。巻末の著作目録をみると、中井久夫の著書が多く刊行されるのは、その頃以降のことになる。

 この間の、入院病棟の増加、向精神薬の開発など、精神医学の進展というか、変化はずいぶん大きなものだったようだ。当時は、入院患者としての収容がメインであるなどと見え、精神医療の旧弊のようなものが岩盤のように存在していると見えたものだった。

 私などは素人として、精神分析的な手法が、新しい可能性を生むものとみていた。しかし、それが精神医学の分野でメインストリームになっていかないのはどうしてなのかと訝しんでみていたとも言える。

 精神分析は魂にメスを入れようとするものという評価もあるようで、狭い意味での精神分析はむしろ問題の解決にはつながっていかないという見方もあるようである。もちろん、神経症の分野での目覚ましい効果と、統合失調症における効果の違いはあるわけである。

 河合隼雄と谷川俊太郎の共著「魂にメスはいらない ユング心理学講義」(朝日出版社レクチャーブックス ) などという書物を読んで大きく影響を受けた記憶がある。

 広い意味での精神分析というか、社会関係の中での人間のありよう、対人関係の中での人間のありようこそ、発症の素因であり、寛解のきっかけであろう、薬物療法等よりは、そういういわゆる精神療法というのだろうか、そちらを重視していきたい思いはあったと言える。

 斎藤環氏も、著書の中で「人薬」という言い方をされている。

 いずれ、文学、思想系統に親しんだ人間は、精神分析というものを過大評価しているきらいはあるのかもしれない。

そういう中で、中井久夫との出会いは、精神分析だけではない精神の療法を発見させられるのではないか、これまでのものの見方の枠を大きく広げてもらえるきっかけとなるのではないか、という期待を持たされたということになる。いまさらということになるのかもしれないが。

 第2部「中井久夫の思想」に下記のような記述がある。

 

「中井は『世に棲む患者』のなかで、社会的能力の向上ばかりを目標にする社会復帰観を批判しているが、寛解過程論においても、「元に戻る」ことを目標とする治療を否定している。なんらかのきっかけで患者が発病前の状態に戻ったとしたら、それは発病のリスクを抱えた強い緊張状態に逆戻りしたということでしかないからである。そのような状態では緊張は決して「解け」ない。

 中井にとっての回復は、患者が元の状態に戻ることではなく、緊張が解け、安心感のなかに寛ぎながら、自分の内なる自然が根を伸ばし、葉を茂らせていくことにほかならないのである。」(68ページ)

 

 病気の治癒というと、発病前の元の状態に戻るというイメージを持ちがちであるかもしれない。発病以前の状態が健康だったはずと。実はそれは、あからさまにはそう見えなくとも、潜在的な病いの状態に置かれているということにほかならない。そうではなくて、新しい自分に生まれ変わっていくというか、社会との関係を組み替えていくということが必要だということなのだろう。

 それは、もともとの社会の多数派の価値観に合わせていくというのでなく、関係性を組み替えていくこと。

 ここは、どういうことになるのだろう。

 多数派の価値観に合わせないままでいいのだ、ということになるのだろうか?多数派の価値観に、それまでとは違った仕方で折り合いをつけて行くということなのだろうか?多数派の価値観と私の価値観とが違ったままで、ずれているままで、それはそれでよいのだと達観することなのだろうか?

 

「現在でもなお(中井の批判にもかかわらず)、精神科医療における自立観は、社会の多数派(マジョリティー)の生き方、価値観を身につけていくことに重点が置かれている。ソーシャル・スキル・トレーニングがひたすら社会適応の訓練としてもちいられ、その延長上にジョブトレーニングがおこなわれる。

 しかし、中井は患者に訓練を強いるのではなく、患者自身から自然に生まれてくる活動に目を向けてみると、思いがけないような仕方で社会とのつながりが回復されていくプロセスが見いだせるという。…(中略)…

 社会とつながるプロセスは、失われたものを取り戻そうと「あせり」に陥ることであってはならない。「ゆとり」のなかで、新たな可能性をふくむ探索的な活動がはじまり、その多くがうまくいかなくても、いくつかの探索活動が次の探索活動の拠点となるというプロセスが連鎖していくことで、患者はおのずから社会のうちに根を張っていく。」(88ページ)

 

 さまざまな試みを試しながら探っていく。まるで、ジャズ演奏のアドリブのような探索、試行。村澤氏らもジャズのたとえを持ち出す。

 

「中井の生命観を比喩的に述べるなら「さまざまなリズムをもつ旋律が絡み合いながら奏でる音楽」として示すことができる。ただし、音楽のジャンルはさまざまで、指揮者を必要とする交響曲もあれば、ジャズのようにおのおの奏者が他の奏者とのかねあいを図りながら結果的に全体が調和する音楽もある。端的に言えば、中井の治療観は後者のジャズに近い。つまり治療者は、患者の治療をオーケストラの指揮者のように「指揮」するのではなく、ジャズ演奏者のひとりとして、患者も含む多くの演奏者たちと呼吸やリズムを合わせながら、共同で調和をつくりだす存在である。」(93ページ)

 

 著者は、最近の若者たちの精神構造に触れてこう述べる。

 

「たとえば筆者は、ずいぶん前から自分の授業でときおり風景構成法(中井が考案した心理テストの一種で、山と川、家、自分など里山の風景を描かせる)を学生にさせてみるのだが、年を追うにつれて学生たちの描く風景は、山も川も単調で平板になり、畑も橋も道もなく、周囲に他の家もなく、人が暮らせるとはとても思えない風景となっており、私がかつて学生時代に心理学の先生から教えてもらった統合失調症患者の絵の特徴を十分に備えたものになっている。古手のカウンセラーには「いまの若者は一昔前なら統合失調症と診断されただろうね」と言うものもいるようだが、私がみるかぎりはそういうことはなく、学生たちはまったくの健常者である。

 むしろ私の考えでは、両者の絵が類似するのは、現在の学生たちが直面している社会的条件が、かつての統合失調症患者が直面した精神的条件と重なっているからである。高度に都市化・消費社会化した現在、若者たちの多くは都会のマンションに住み、都市の職業につき、もはや里山の暮らしなど想像もつかない状況になっている。生活の基盤がブラックボックス化し、高度に抽象化したことにくわえ、コミュニティとは無縁の孤立した生活を営むのが普通である。そういう現在の若者たちに、そもそも里山的生活の光景など描けるわけがないのだ。」(210ページ)

 

 里山の暮らし。若者たちの新しい生き方の指針となりうる考え方。

 昨今、田舎志向の若者たちが多数現れている。それは、自分たちが生き生きと暮らしていける場を求める志向である。と同時に現在の世界の文明批判であるような生き方であるとも言える。

 現在の社会のありように対する批判である。

 こういうところ、最近私が読んでいる書物は、すべて同じことを、それぞれの著者なりの言い方で語っているように思う。直近で言えば、平川克美の「楕円幻想論」であり、高橋源一郎と辻信一の「雑の思考」である。

 中井久夫は、今後、読み進めていきたい著者である。現代日本において、読まれるべき思想家であると考える。

 


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