山口尚氏は、1978年生まれ、京都大学総合人間学部から大学院博士課程を出て、大阪工業大学講師、京都大学講師、専門は「形而上学、心の哲学、宗教哲学、自由意志について」、ということは、ひっくるめて言えば哲学ということになる。著書に『哲学トレーニングブック-考えることが自由に至るために』(平凡社)、『幸福と人生の意味の哲学-なぜ私たちは生きていかねばならないのか』(トランスビュー)など。
扉をめくると、まず、
「この本は「J哲学」という日本哲学の最前線を紹介する。」(3ページ)
と、目に飛び込んでくる。
J哲学とは何のことだろう?
「それは…音楽におけるJ-POPの哲学での対応物である。」(3ページ)
と、いささか軽い調子で始まる。
「音楽界において世界と伍するJ-POPがあるように、哲学界は同じく世界と伍するJ哲学がある。…本書は《J哲学でどのような思索が展開しているのか》にかんする最新の情報を読者へコンパクトに伝えることを目指す。」(3ページ)
ふむ。〈最新の情報をコンパクトに伝える〉か。イマドキの学生に敬遠されないように気を遣っているみたいな感じ。講義に、いかに多くの人数に登録してもらえるか、みたいな。
ただ、世界に伍する日本の哲学、という評価については、私もすなおにそのとおりと思う。明治の開国から戦後しばらくのあいだまで、哲学と言えば、西田幾多郎がいたとしても、ほとんどが西欧の哲学者の著作の翻訳や紹介であったが、最近では、西欧の哲学者の影は相当に薄くなっている。ジル・ドゥールズのあとは、もちろん、皆無とは言えないだろうが、一般に名前が知られる人物はほとんどいない。日本において、サルトルのころまでは、社会に対する西欧哲学の影響は相当に大きなものがあったが、その後、どんどん影響力を失って、哲学そのものが、大学の講壇のなかに押し込められていったようにも思う。しかし、最近では、國分功一郎ら、ここで紹介される若い哲学者の活躍によって息を吹き返しているとも言えるだろう。
いずれ、日本語という言語で、これほど多彩で深い思索が行われているという事実は大切にされるべきものだ。(ここは内田樹の受け売りではある。)
さて、「J哲学」という言葉は、山口氏の創作ではなく、もともと「ウィトゲンシュタイン研究で有名な鬼界彰夫が使い始めた概念である」(4ページ)という。その概念の説明のため、まずはモデルとなったJ-POPについて、山口氏は、以下のように語る。
「J-POPは、…必ずしも「日本的な」ものにはこだわらない…。…例えばサザンオールスターズは数十年来のJ-POPの旗振り役だが、このバンドは《日本的なものを歌に取り入れるぞ!》などと意図しない。…〈普遍的なポピュラーミュージックへたまたま私たちの言語である日本語で取り組む〉という営みである。」(5ページ)
これは、まったくその通りのことで、日本のポピュラーミュージックにおいて、ユーミンと中島みゆきの対比だとか、演歌とか歌謡曲はどうだとか、椎名林檎におけるニッポンだとか、いろいろ語りたくなってくるが、それは、別に書いたこともあるし、また、別の機会にということになる。
ということで、J-POPとは〈普遍的なポピュラーミュージックに日本語で取り組む〉営みである。
そのうえで、J哲学も同じ成り立ちなのだと語る。
「J哲学についても同じことが言える。…J哲学と呼ばれる日本哲学の最前線は《日本的なものを哲学に取り入れるぞ!》などの志向を持たない。むしろ、「輸入」と「土着」の区別を超えて、限定修飾句なしの「哲学」に取り組むのがJ哲学である。そしてそれが…日本語で行われるために「J」が冠されているのである。」(5ページ)
山口氏は、J哲学の先駆者として、下記の哲学者たちをあげる。
「20世紀の終盤以降、このタイプの哲学者-すなわち輸入/土着の区別を超えて「普遍的な」哲学へ取り組む者―は複数出現している。
…野矢茂樹…入不二基義、内田樹、大庭健、小泉義之、田島正樹、永井均、中島義道、檜垣立哉、森岡正博、鷲田清一などがそれぞれ…J哲学に取り組んできた。」(6ページ)
さらに、そのはじまりに、大森荘蔵がいるという。
「先述の鬼界は大森荘蔵を〈J哲学に先立ってその土台を形成した哲学者〉と見なしており、この捉え方には正当な理由がある」(10ページ)
ここに続けて、大森や上記の哲学者たちの思想がコンパクトに紹介されるが、そこは著作に当たってほしい。
ところで、私にとっては、哲学者として、中村雄二郎の存在は巨大なものがあるが、ここで触れられていないのはどういうことなのだろうか?あるいは、内山節。私などは一介のディレタントに過ぎず、日本の講談哲学の歴史においてはどういう位置づけになるのか詳らかにはしないところであるが…
で、この本の本体は、下記の6名の著作を一冊づつ取り上げての紹介ということになる。
「具体的には本書は、日本哲学の最前線たる六人の旗手、すなわち國分功一郎・青山拓央・千葉雅也・伊藤亜紗・吉田徹也・苫野一徳のそれぞれの思想を紹介する。」(3ページ)
各章のタイトルは次のとおりである。
第一章 共に生きるための言葉を探して-國分功一郎『中動態の世界』
第二章 人間は自由でありかつ無自由である-青山拓央『時間と自由意志』
第三章 偶然の波に乗る生の実践-千葉雅也『勉強の哲学』
第四章 身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成-伊藤亜紗『手の倫理』
第五章 しっくりいく表現を求めて迷うこと-古田徹也『言葉の魂の哲学』
第六章 エゴイズムの乗り越えと愛する意志」-苫野一徳『愛』
それぞれの内容は、ここでは触れないが、苫野一徳について、小さな教団の教祖であった、という驚くべき記述がある。苫野本人がその著作で触れているとのことである。
「苫野は若いころ、小さな教団の教祖をしていたらしい。…そのさい彼は《愛とは何か》にかんして確かな考えを持っていたのだが、後にそれは「幻影」として否定されることになる。」(170ページ)
だから、苫野の言説は怪しげなものである、などということではない。それではあまりに短絡に過ぎる。一般的には驚くべき経歴ではある。
末尾の「おわりに」は、「自由のための不自由論」である。
「このように…本書で取り上げた哲学者はそれぞれの仕方で「意志」概念を批判する。それゆえこの六人のやっていることを「不自由論」で括ることには十分な根拠がある。」(195ページ)
「本書は、二〇一〇年代のJ哲学の代表的な流れは「不自由論」として特徴付けられる、と主張する。
…出口の見えない経済的低迷…あるいは薬物依存症などの精神と身体をめぐる不自由への顧慮がここ一〇年ほどの不自由論を喫緊のものにしている可能性もある。…とはいえ哲学は時代を超越する面があり、本書で取り上げた哲学者はそれぞれ〈不自由〉をめぐる根源的考察を提示している。」(197ページ)
と、この紹介を纏めているさなか、河北新報の1月20日付朝刊「論考2022」に、磯野真穂さんという人類学者が、次のように書いていた。
「生きる上で身体と他者ほど面倒くさいものはない。動けば疲れる、眠くなる。何もしなければ髪も眉毛もボサボサになり、風呂に入らなければ臭くなる。自分ではない誰かは、時に存外な言動をして私たちを傷つける。
しかし、私たちは生きる限り、この二つから逃れることができない。」
人間は、根源的に不自由なものなのである。置かれた状態のままでは決して自由ではない。
「そのうち私たちは、生きることそのものすらも面倒くさいと思うようになるかもしれない。」
不自由に取り囲まれているからこそ、自由を希求するのだ。
この書物と深くシンクロする内容である。
などと思いつつ、「おわりに」から引用すべき箇所を探していたら、メインの6人以外の哲学者も短く取り上げられているなかに、
「吉野真生子と磯野真穂の共著『急に具合が悪くなる』(晶文社、二〇一九年)も随所に〈自由のための不自由論〉を看取できる著作だ。」(200ページ)
と、紹介されていた。
なんとまあ。
ちょうどこの前に紹介した河合隼雄の本でも取り上げられているシンクロニシティ(不思議な同調、というべきか)かもしれない。
中村雄二郎のパトスの知、臨床の知、鷲田清一の臨床哲学や哲学カフェのことも、ここから関連付けて語りたい思いはあり、経験論の優位というか、経験論は前提となりうるが、合理論はあくまで方法である、などという議論も行いたいところだが、それはまた別の機会に。
#山口尚 #日本哲学の最前線 #講談社現代新書 #J哲学 #國分功一郎 #青山拓央 #千葉雅也 #伊藤亜紗 #吉田徹也 #苫野一徳 #中村雄二郎 #鷲田清一 #内田樹 #磯野真穂 #河北新報 #論考2022
※國分功一郎氏、鷲田清一氏、あとは内田樹氏など、このブログで紹介している関係書はもっとあるが、このくらいにしておく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます