ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大塚信一 河合隼雄心理療法家の誕生 トランスビュー

2022-01-18 13:04:32 | エッセイ

 大塚信一氏は、岩波書店の編集者で、元社長。同じ著者で同じ出版社の『河合隼雄 物語を生きる』(2010年)は既に読んでいる。こちら「心理療法家の誕生」は、2009年刊ということで、順番としては逆になってしまった。
岩波・朝日文化人などという言葉があって、現在の日本においては素直に尊敬の言葉ではあり得なかったりするが、私などは、その末席のさらに外側にうごめく文化人もどきに過ぎない。大塚氏の手のひらのうえから振り落とされて、中空を漂う泡沫か、綿埃か、というところである。
 同じシリーズ(といっていいのだと思うが)で、『山口昌男の手紙 文化人類学者と編集者の四十年』(2007)、『哲学者・中村雄二郎の仕事 <道化的モラリスト>の生き方と冒険』(2009)、『松下圭一 日本を変える: 市民自治と分権の思想』(2014)は読んでいる。別出版社の新書版であるが、『宇沢弘文のメッセージ』(集英社新書、2015)も読ませていただいた。河合隼雄、山口昌男、中村雄二郎、松下圭一、宇沢弘文と並べると、実は氏は、大江健三郎も参画したあの雑誌『ヘルメス』の編集者でもあり、私の関心領域はほぼ覆いつくされてしまっていると言って過言でない。
 この一連の著作の先駆けとなった『理想の出版を求めて 一編集者の回想1963-2003』(トランスビュー、2006)も、近いうちに読まないわけにはいかないだろう。

 さて、本書の序章「物語のはじまり」は、氏と河合隼雄の出会いから書き起こされる。

「今、私は一冊の岩波新書(青版)を手にしている。河合隼雄氏著の『コンプレックス』である。奥付を見ると、一九七一年一二月二十日第一刷発行、二〇〇八年五月十五日第五八刷発行となっている。
 この新書の執筆依頼のために、一九七〇(昭和四十五)年の初秋の頃だと思うが、京都駅前のあるホテルで合ったのが、河合氏との最初の出会いであった。」(3ページ)

 河合氏は、1928年生まれであるから、42歳、このころすでに、『ユング心理学入門』、「箱庭療法」や「ロールシャッハ法」についての著作をものしているが、ユングをあまり表に出さず、日本社会に「コンプレックス」という概念が広く受け入れられ、流通するきっかけともなったこの新書の出版は、同時に、河合隼雄の名を広く世に知らしめるきっかけでもあったようである。その後長く、大塚氏と河合氏の親交は続くことになる。

【待て、而して 希望せよ】
 第1章「丹波篠山に生まれて」で、河合氏が子どものころ、兄に勧められて読んだアレクサンドル・デュマの長編小説『モンテ・クリスト伯』の主人公の最後の言葉が取り上げられている。「待て、而して 希望せよ」、この言葉は、氏の仕事においても、非常に重要なものとなった。
 
「後に、河合氏は『日本人とアイデンティティー-心理療法家の着想』(創元社、一九八四年)の中で…次のように重要な発言をしている…。

「待て、而して 希望せよ」というのは、モンテ・クリスト伯の最後の言葉であるし、長々と語られるモンクリ物語も、ただこのことを言うためのものだと言ってもいいくらいであろう。そして、非常におもしろいことに、私の職業はまさにそれにぴったりなのである。自殺しようとする人、子どもを見放そうとする親、教師、それらの人に「待て、而して 希望せよ」と繰り返すのが私の職業である。
 すべてが駄目と思われるときでも、待つことと希望することを、しぶとくやっていると、不思議な解決がそこにもたらされてくる。私には困っている人、悩んでいる人を救うために何か手出しをすることなど必要ではない。」(39~40ページ)

 手出しをすることなど必要でないという。心理療法家が手出しをしない。私は、河合隼雄らの著作は相応に読んでいるので、それはそういうものだと文字面の上では分かっている。相談に来たクライアントに、世間的常識で説教し、指導しても役に立たないことは承知している。しかし、手出しをしないことで、救うのだという。
 ここは、河合隼雄ならではのマジックとでも言いたいようなところではある。なまじの心理療法家、臨床心理士あるいは、精神科医にとっても、なかなかこうはいかないところではないか。

【心理療法の核心、物語を語り、生きる】
 終章「新たな物語のはじまり」の4は「心理療法の核心」である。ここでも、相当に重要なことが語られている。

「…河合氏は次のように言っている(『河合隼雄 その多様な世界―講演とシンポジウム』岩波書店、一九九二年)。

 そうしますと、私の職業はどういう職業かというと、こられた方が自分の話をどうつくられるか、それを助けることです。だから、その人が話を作られるのであって、私が理論をその人に適用するのではないということです。「フロイトによればこういう理論がありますから、あなたは理論的にいうとなにを抑圧しているのです」ということをいうのではなくて、こられた方が「私の人生をこうみていましたら、こう物語れるのです」というふうにいって、「しかも腹におさまったのです」「ああ、おさまりましたか」というところまでいかなくてはならない。そのあいだにもちろん私はいろいろ助けることができます。なぜ助けることができるのかというと、私はたくさんの物語を知っているからです。そして不思議なことに、新しい物語はなかなか生まれてきません。
 (中略)
…私という人間がその物語をつくり、私という人間が物語を作りあげるだけではなくて、物語を生きるということがあると思います。つまり生きながらつくっていくのです。いま現在つくっているのです。だから、その人の個性がそこに出てくるのではないか。ただしベーシック・パターンというか、深いパターンをみていくと、非常に普遍性をもっている。だからこそ、考え方がちがうようでも、お互いに相互理解ができるのではないかと私は思っています。…
 そういうことによって、地球の歴史、あるいは人類の歴史、まさに全体のコンステレーションのなかのひとつの星のようなものとして私たちが生きているということが基礎づけられるのではないかと思っています。」(340ページ)

 こういうのを読んでいくと、河合隼雄の仕事というのは、オープンダイアローグを準備する前史に、巨大な先駆けとして存在しているのだ、と思われてくる。
 クライアントが、自分の話を物語る。河合は、ひたすらその話を聞く。傾聴する。そして、クライアントを助ける。助けるというのは、適切な形で言葉を添えること、同じ言葉を繰り返したり、よく分からなかったところを聴き直したり、語り続けることを助け、つまりは、対話を続けることに他ならないはずである。クライアントに焦点を置いた対話を続ける。
 河合隼雄の心理療法は、いわば、河合の名人芸として行われていたのではないか。
 安易にできるということではないが、オープンダイアローグという方法は、複数の専門家が協力することによって、河合隼雄のような練達の職人でなくても可能であるところに大きな意味があるということなのかもしれない。
 おさらいしておけば、オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)によるオープンダイアローグ対話実践のガイドラインの7つの原則の6つめは、〈不確実性に耐える〉「答えのない不確かな状況に耐える」、7つめが、〈対話主義〉「対話を続けることを目的とし、多様な声に耳を傾け続ける」というものである。専門家が、あらかじめ明確な答えを所持していてそれを教えるとか指導するとか、そういうことではなく、クライアントが語ることに耳を傾け、クライアントが紡ぐ物語の生成を辛抱強く待つということが求められる。
 オープンダイアローグに通じていく河合隼雄の先駆性ということは、ここでの私の発見などということではなく、ここまで読んできたオープンダイアローグにかかる斉藤環氏らの著作を再度点検すれば、たぶん、何箇所でも引用できるに違いないが、その作業はまた別の機会ということにしたい。名人芸の解体とか、脱神秘化とか、そんな言葉遣いをする必要はないのだろうが。
 大塚信一氏は、この書物で、丹波篠山での生い立ちや、スイスのユング研究所への留学や、主要な著作を紹介し、そういう時系列をたどるのみでなく、河合隼雄のエッセンス、押さえるべき重要なポイントを逃さずに紹介された、ということになる。



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