ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

からだからだからだから

2011-06-10 21:18:29 | 寓話集まで

リアス・アーク美術館のワークショップで、「体・からだ・カラダ」と題して面白いことをやっていた。十月十三日の日曜日、最終日の閉館間際行ってみた。
 学芸員の山内宏泰氏が、若い男の腰に柔らかい紙を巻きつけ終え、ガムテープを引きちぎってその上に張りつけていく。体の線に沿って、たるみが生じないよう丁寧に張る。丁寧であるが、手慣れている。へそからふとももの途中、丁度一番太くなるあたりまで、あれはなんと言うのだろう、サッカー選手がユニフォームの下につけるピッタリした伸縮素材のパンツをはいたうえに、これもピッタリ巻き付けた白い紙の地が見えなくなるまでガムテープを張りつけていく。
 こちらの作業台の上に、既に型を取りおえた胸、手、下肢、足、首が置いてある。全て肌色のガムテープで表面を覆われている。胸と首は空洞、手足は中に綿を包み込んでいる。今作っている腰も、一旦切り裂いて剥がし、胸と同様の表面のみの空洞になるのであろう。
 表面が奇妙に輝いて滑らかに美しい。ガムテープというごく無骨でむしろ荒っぽい実用の材料が、油絵の具やブロンズのように本来的な美術作品の素材に見えてくる。
 実は、前の週の日曜日、仙台に、山内氏の個展を見に行った。
 台原の、坂を登った住宅街の中に密むWhat’s art Gallery(芸術とは何だ画廊)にて、山内宏泰展―Present―。
 ギャラリーのサインがなければ、ごく普通の住宅風の建築のドアを開けると、中は真っ暗で、人の気配がない。二階から女性が下りてきて、ペンライトで中に導かれる。右手は、半地下風の暗がりであった。(実際は、入り口が中二階であり、展示スペースが、斜面に立つ建物の一階であろう。)
 十メートル四方ほどの人口の洞穴は、二燭光ほどのほの暗い灯が灯っている。目が慣れてくると、電気のコードを何本も体から垂らした異様な人体が浮かび上がってくる。
 等身大の裸体の男が立ち、その手前にお腹を膨らませた女が向こうを向いて立ち、男と向かい合って性別の定かでない人体が胡坐をかいて座り、その奥に死体が横たわる。それらの全ては臍や乳首や頭から何本ものコードを延ばしお互いが繋がり合い、円を形づくる。同じくコードで半径を描いてその中心に位置する赤ん坊に繋がっている。
 生と死、エロスとタナトス。
 かれらの皮膚は、光沢あるガムテープだ。骨格と筋肉は内部に存在するが、素材は外から見えない。
 ぶつぶつ、ぶつぶつと、かれらは際限なくおしゃべりを続けている。具体的な言葉は聴き取れないが、かれらのおしゃべりはいつまでも続いている。聴き続けるうち、屋外で日が暮れていくのも忘れてしまう。


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1 コメント

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山内氏は ()
2011-06-10 21:43:29
山内宏泰氏は、震災後の今、リアス・アーク美術館にいて、自らの使命を深く考えているようです。
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