ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

コーヒーの淹れ方

2013-06-08 13:40:41 | エッセイ
 インスタント・コーヒーは、スプーンですくって、カップに入れてお湯を注げば出来上がりで、残滓がない。
 しかし、コーヒーは、つまり、レギュラー・コーヒー、豆から挽くコーヒーは、残滓が残る。煙草を喫っていた頃は、灰皿に敷いて、匂い消し(どれほどの効果があったかは定かでないが…)に使ったものだが、基本的に、ゴミとして捨てるものだ。勿体ない。
 日本茶は、家庭で淹れる場合、通常、一回きりで捨てることはない。何度かお湯を注いで、だんだん味が薄くなって、カフェインもほとんど出なくなって、出がらしにしてから捨てる。この出がらしの茶葉も、それなりの利用法があるらしいが、それは、さておく。
 コーヒーを、ドリップでいったん普通に落としてから、もういちど、お湯を注いで飲むということをするひとがいる。(実は私自身も、一度はやってみたことがあるのだと思う。遠い昔に。)
 お茶と違って、この2番目に落としたコーヒーというものは、飲めた代物ではない。確かに色や、それなりの香りや味はあるのだが、薄いというだけでなく、妙なえぐみのようなものも出る。嗜好品としての意味が全くないものと化してしまう。
 今朝も、コーヒーを落とした。妻の分とふたつ、カップに注いで飲む。今朝のものは、武蔵境の自家焙煎珈琲店「コーヒーロースト」(コーヒーをローストするという、まさにそのままの名前)の「カップ・オブ・エクセレンス」と名付けられた、コスタ・リカの産らしい。息子に連絡して、駅前の店で注文し、発送してもらった。強めの、しかし柔らかな酸味とほのかな苦味。
 妻は、苦味のコーヒーを好むが、この酸味は好きだという。夏の涼風のような、とか形容している。
 自宅でコーヒーを飲む。休日、ゆっくりと起きだして、昼食ともつかない遅い朝食のあとに、豆を挽いて、ペーパードリップで淹れる。毎週の習慣。
 若い頃、豆でコーヒーを買って、自分で挽いて淹れはじめたころ、思い悩んでいたことがあった。
 何一つ不自由のない裕福な家庭に育ったわけではない。田舎町の小さな職人の家。後期には、ひとりの弟子も置かない一人親方の時期もあった。ほとんどプロレタリアートともいうべき、プチ・プチ・プチ・ブルジョア。ものを無駄にすることには罪悪感めいたものを感じた。
 一杯の、あるいは、三杯分のコーヒーを入れるのに、最適な豆の分量は、そして、最適なお湯の量は、と思い悩んだものだ。最適な、というよりは、きちんと飲むために、最小の豆の量と、それにたいしてぎりぎり許容される最大のお湯の量はどういうものかと思い悩んだ。まだ、美味しいコーヒーと言えるエキス分が残っているのに、それを無駄にして、生ゴミとして捨てるわけにはいかない。かと言って、これ以上、お湯を注げば、味が損なわれるということになっては、そもそも、コーヒーを淹れる意味がない。
 さて、豆の量を、秤で何グラムと量り、お湯の量をビーカーで量ったわけではない。そこまでやれば、自然科学者への道を歩む、ということになったに違いない。
 豆については、コーヒー用の計量カップなり、あるいは、コーヒーミルのどの高さまで入れるべきか、お湯の量については、サーバーの、どの高さまで入れるべきか?
 あ、そうそう、私の一つ下の後輩が、コーヒーについて、その手の実験をしていた、とは聞いたことがある。その友人も、そのあと、美味しいコーヒーを淹れるということについては、一家言ある存在となったらしい。現在、仙台で優秀なテレビ関連の技術者として活躍している、理科系の人間である。
 私自身は、その豆と水の分量についての最適解について、抽象的に思い悩んでいただけで、実験をすることはついになかった。もちろん、具体的にコーヒーを淹れる行為は、何度となく繰り返してきた。その都度その都度、ほとんど、目分量で、適当に淹れてきた。
 まあ、その結果、その都度、満足できるコーヒーを淹れることができるようになってきたわけで、この経過には満足していると言っていい。
 コーヒー豆の残滓には、まだ、それなりのコーヒーのエキスが残ってはいるはずだ。それは、確かなことだ。今朝の淹れがらにも、良き味、良き香りの残滓は残っている。しかし、最後の最後まで絞り取るような行為は、結局、全てを台無しにする。せっかくのコーヒーの美味しい成分を薄くして、さらには不純なえぐみを与える。天与の魅力の全てをは奪い取らないこと。全てを求めすぎないこと。
 無駄を残すこと。最良のものを味わうためには、取り尽くさないこと、一見無駄と思える余白を残すことが肝要だ。
 私が、毎週毎週コーヒーを淹れながら学んだことは、そんなことだ。

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