ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ 毎日、川を眺めて暮らしている。

2010-02-27 14:34:34 | エッセイ
これも、たぶん、気高PTA会報掲載のもの。

 毎日、川を眺めて暮らしている。
 川といえば、「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず…」という鴨長明の言葉が思い起こされる。
 川は確かにそこに存在する。気仙沼市を流れる大川という川だ。しかし、そこを流れている水は、一瞬たりとも同じ水ではない。どんどん上流から流れて来て、海に流れ込む。 これは、ちょうど、ぼくたちの体と同じことになる。ぼくの肉体はここにある。昨日のぼくの肉体と同じ肉体が今日もあり、恐らくあしたも存在する。しかし、ばくたちはモノを食べ、排泄する。空気を吸い込み、吐き出す。血液が、全身を流れる。栄養が行き渡り、老廃物が運び出される。分子レベルでいえば、ぼくたちの肉体は、一時も同じ肉体ではない。
 物理学の知見では、物質を、本当に小さなところまで見ていくと、粒子なのか、波動なのか確定できなくなるのだという。物質と、その作用は区別がつかなくなってしまう。
 しかし、ぼくたちの日常生活においても、事情はそんなに変わらない。
 川とは、眼下の本町と本郷の間の水の流れている区域のことであろうか、あるいは、現に室根山やら、八瀬地区に降った雨が流れて来るその水のことであろうか。
 いったいどちらなんだろう。
 ぼくらの普段の生活においては、そんなことはどうでもいいことである。どちらでもいいのだ。
 そんなことにこだわるのは、哲学者、そして、科学者のみである。
 大切なのは、そこに、川が流れていること。そして、ぼくたちの生活に、それがどう関わっているのかということだ。
 河川工学の専門家、新潟大学の大熊孝教授が、こどもたちを対象に書いた「川がつくった川、人がつくった川」(ポプラ社1995年4月第1刷発行、ここでは、96年5月の第4刷)を読んだ。
 教授が学んだ時代の河川工学の教科書では、川とは「地表に降下する雨、雪などを集めて流下する流水と水路を河川という」と定義されていたそうだ。(162ページ)
 (なるほど、水路という区域と流れている水両方のことを言っている。さすが、科学である。と、そんなことを感心してもしょうがない。)
 ところが、大熊教授は、「すなわち、水循環の一部に川があることは認識されていましたが、川そのものはたんに水を流すだけの排水路としか考えていなかったということです。」と批判する。「そこで、わたしは川をつぎのように考えることにしました。『川とは、地球における水循環と物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然であり、ゆっくりと時間をかけた人間との交流のなかに、地域の文化を育んできた存在である。』」

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