ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ 「一本の牛乳」をめぐって

2010-03-01 19:00:29 | エッセイ
前に霧笛(68号)に載せたもの。           

 ジャーナリストの亀地宏さんから、前号、良子さんの「冒頭の『一本の牛乳』の特に最初の四行が印象に残っています」と書き送っていただいた。
 詩誌「回生」の小熊昭広氏も、ホームページで、この詩について触れられている。

「その前半部分は、

 たった一本の牛乳を
 握りしめ
 牛乳屋さんが
 国道を 横切る

というもの。これだけで、すてきな詩になっている。」

 同HPの掲示板のほうには、他の方から賛同の書き込みもあり、返答の中で、小熊氏は、さらに、
「この詩の後半部分は、

 私は
 私という道のりで
 たいせつな何かを
 ひとかけらだけ
 誰かに
 手渡すことが
 できただろうか

 この牛乳屋さんのように

 です。私の考えでは、この後半部分は必要ないです。
 前半部分だけで、後半部分のことをすべて表現していると思います。それが 詩 なのではないかと思います。」と、述べられている。
 ぼくも、掲示板に、確かにそうだと、同意する書き込みをした。
 しかし、ふと、妻に(詩を書く人間ではない。)どう思うか聞いてみたところ、彼女は、後半も欲しいという。良子さんの伝えたいことが、後半を読んではじめて理解できると。
 あながち、妻の論も、素人の浅はかな考えと切り捨てることはできないかもしれない。凝縮した前半をいわば解凍する最低限の解説が、読み手に対して親切であるかもしれない。
 皆さん、どう思いますか。
 と、今回は、問題提起まで。

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