こころ模様

人はなぜ生きるのでしょうか。希望、居場所、時間というキーワードから、人生とは何かについて考えていきます。

教養の大切さ

2005-04-30 17:15:01 | 希望
昨日、ルーヴァンから新ルーヴァンに行く列車のなかでのこと。レンズさんが大学生だった頃は、ルーヴァン大学でフランス語とオランダ語の二つの心理学講座が並列していて、ニュッタン(レンズさんの先生)は両方の講座で教えていたという。

その話の展開のなかで、レンズさんは高校生のときにラテン語とギリシャ語を3年間勉強したが、今の大学生は哲学の学生でもギリシャ語やラテン語を読めない(読まない、読もうとしない)ので、哲学の教授がぼやいているということを聞いた。近頃の学生は、翻訳本を読んで、それで済ませるらしい。

確かに、オランダ語や英語でソクラテスやプラトンを読んだ方が、原書で読むよりずっと早いだろう。日本では、どうだろう。日本は翻訳文化の国だから、実にいろいろな国の書物が日本語になって出版されている。だから、原書を読まずに、翻訳だけで済ませてしまうことも十分にできる。

最近では、その翻訳本さえ読まずに、「○○早わかり」の類の紹介本をちらっと読んで、思想家や歴史家の理論や体系を「理解」したような気になっている人が多いような気がする。出版界も読者も双方が、それぞれの思惑で、できるだけ容易な本を求めているのではないだろうか。

教養を身につけることは、自分の内面を耕す営みに通じるものである。目先のことだけ考えるのではなく、遠い未来を見据えるなかで、教養のもつ本来的な意味を理解できる。迂遠であるように見えても、着実に一歩ずつこころの大地を耕し、明日へとつながる今日を生きていくことが強く求められている。真の教養は、人間が生きていく上での力となるにちがいない。

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3 コメント

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古典語?の問題 (pfaelzerwein)
2005-05-01 16:02:00
記事を拝見させて頂きました。ドイツの教育で古典語?の問題に決着が付いたのは、10年近く前だったと覚えています。その時に議論されていたのは、論文だけでなく国際学会で使われる言語は英語が主力であり、ドイツ語学等少数を除いては英語が教養語だというような現実でした。



「ルネッサンスは遠くになりにけり」ではありませんが、しかし学術分野によっては今後また「近代を超えて」と言う事になるかも知れないと想像をしたりしています。



「理論や体系を「「理解」」したような気」は私にとっても大変耳が痛いお話です。現在はWIKI等を使えばより系統的に検索が出来てしまう便利さもあって、こうして何かを書かせて頂く恩恵に与っています。



「真の教養は、人間が生きていく上での力」は信仰告白のようなもので肝に銘じたい言葉です。



シェーフィールドは、昔ピーク・ディストレクトに遊びに行ったとき、そこで乗り換えたりそこの労働者と話したりしましたが、ご専門分野での繋がりは意外でした。
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自戒の意味を込めて (都筑)
2005-05-01 16:56:58
pfaelzerweinさん、コメントありがとうございました。コメントいただいた文章は、自分自身への自戒の意味をを込めて書きました。



Wein, Weib und Gesang 興味深く読ませてもらっています。お互いのつながりが、点から面へと広がっていくとよいですね。



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はじめまして (wata)
2005-05-06 17:17:35
トラックバック有難うございます。

確かにすべてにおいて 教養は大変不可欠なものと

思っています。もし良かったら 是非マキシィ

コミュにお誘いしたいのですが、いくらなんでも

まだ失礼と遠慮しております。

すばらしいBlogですね。
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