ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

ゆふづつと月

2017-08-11 04:19:41 | 短歌





こほろぎの ひそむ青野の ゆふべにて あかずながめし ゆふづつと月    夢詩香





*たまにはわたしの歌もあげましょう。これはツイッターで、銀香炉と歌争いをしていた時に詠んだ歌の一つです。

わたしもかなりの歌は詠めますが、実力から言っては、銀香炉に一歩ゆずることを認めないわけにはいきません。彼はこういうことに抜きんでている。こういう通好みという世界に非常に豊かな、広い世界を持っているのです。

ですから彼が詠う歌はいつも整っている。きついところにスパイスが聞いていて、言葉が研ぎ澄まされています。言いたいことがすぐに腹の中に溶けてくるという感じです。

少し前にあげた蝉の歌などは、彼だけでなく、わたしたち全員の代表作ですよ。

しかしそういう彼とやりあったおかげで、わたしもだいぶ力が伸びました。それまでもそれなりに詠むことはできましたが、彼という人に学んでいくうちに、もっと深まった気がします。

言葉の扱い方とか、ひねり方とかが、各段に上達したような気がします。

小さな三十一文字の世界にも、実に深い世界がある。どこまで言っても限界にたどり着けない広い空があります。伸びていけることがうれしい世界がある。

優れた師に学ぶことほど、幸福なことはありません。

コオロギが潜む青い野原の夕べに、あなたと飽かず眺めた、空の明星と月でありましたよ。

何げない歌ですが、銀香炉の影響で、歌がしまっています。空にかかるゆうづつと月が目に浮かぶようです。このように言葉に刺激されて鮮やかに映像が浮かぶのは、言葉にこめられた心が、痛いほど強いからでしょう。いい歌詠みというのは、鮮烈なほど、魂が強い人です。

情熱というのではない。すぐれた歌詠みというのは、魂の中に剣に似たものをもつのではないかと思うほど、強さを感じる時があります。すばらしいですね。

彼はなかなか姿を現してくれないが、また来てくれたら、またすばらしいことを学ばせてもらいたいですね。






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かぞいろ

2017-08-10 04:19:37 | 短歌





しらたまの わがこかはゆや たんとやろ おまへたれでも かぞいろうれし





*これも、スピカの絵付き短歌の歌です。

「白玉の」は「我が子」とか「君」などにかかる枕詞です。

白玉のように大切な我が子よ、かわいいかわいい、たんとやろう。おまえがだれであっても、親はうれしいぞ。

「かぞいろ」は「父母」という意味の古語です。古い言葉では父は「かぞ」、母は「いろ」とか「いろは」とか言いました。あたたかい言葉ですね。この国ではまだ親のことを「かぞいろ」と呼んでいた時、親子の断絶も葛藤もなかったのです。親はそのまま子にとって、最もいいものでした。

「たんとやろ」などという崩した言い方が暖かいですね。こういう表現はスピカらしい。わたしだったらもうすこしきちんとした表現をするでしょう。無粋なので詠いなおしなどはしませんが。彼のこういう読み方にかなう歌を詠める気はしません。

ところで、この歌はたしか、ミルコ・ハナークという美しい動物の絵を描く画家の絵につけたものでした。絵の中では、おそらくカッコウか何かのひなに、ほかの小鳥の親が餌を与えているという図が描かれていました。

知っていると思いますが、カッコウやツツドリなどという鳥は、托卵と言って、ほかの鳥の巣に自分の卵を産みこみ、ほかの鳥に自分の子を育てさせるのです。ずいぶんと横着な習性だが、こういう生き物が存在していることにも、何か深い意味があるのでしょう。

カッコウのひなに、ほかの小鳥の親が餌を与えている絵に、この歌が添えられていると、また何か深い意味が生じますね。親にとっては、その子は本当の子ではないのだ。しかも、自分の本当の子を殺した子でもあるのだ。

親鳥はそんなことは知らないでしょう。鳥はただ、こどもをいいものだと思って、食べ物を運んでくることに、夢中になっているだろう。だがわたしたちはその姿を見て、感じられることがある。

罪の大きな子でさえも、いやそうであるからこそ、深いところでつながっている何かがある。それを頼りに、愛し合っていきたい。

我が子よ、おまえがだれであっても、わたしはうれしいぞ。

愛は、確かには見えないが、奥底でつながっているその何かを信じて発するものだ。馬鹿なことにしないで、一生懸命に育てた子供はいずれ大きくなって、山の空を、美しい声で鳴き渡るだろう。






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小鳥の声の魚

2017-08-09 04:19:50 | 短歌





わたつみに 小鳥の声の 魚はゐて 星にうたへぬ 恋のうらみを





*これはスピカがウォルター・クレインの絵につけた歌です。あの絵付き短歌のシリーズはけっこう好評でしたよ。お楽しみいただけたようだ。何の反応もないように見えてね、あなたがたの心は丸見えなのです。一皮むけば、見えない返信リツイートが山のように積もっているんですよ。

それを表向き何もできないというのは、未熟以外のなにものでもありません。

ところで、ツイッターではいろいろと面白い言い回しをしていますね。さざき鍵とはみそさざいに住まわれて開けることができなくなった鍵のことだ。魚の声とは静けさのことです。で、時々歌っている、うぐひすの声持つ魚というのは、わかりますね。人魚のことです。

アンデルセンの童話の中に出てきた人魚姫は、すばらしく美しい声を持っていた。また他の伝説に出てくる人魚も、美しい声で歌を歌い、舟人をまどわすそうです。

人魚とか、水の精だとか、ローレライとかいうものは、男に欲望の対象とされ、捨てられた女性の亡霊の、変化したものです。オフィーリアの伝説にもあるようにね。女性は恋に破れると、よく水に身を投げて死んだのです。

そのまま水に溶けて泡となって消えてしまえばいいと思っていたらそうはいかない。まるで木霊のように、何かが海のかなたから帰って来ることがある。

「うたへぬ」は「歌へぬ」ではなくて、「訴へぬ」です。「うたふ(訴ふ)」は「うつたふ(訴ふ)」の促音省略形です。こういうのはほかにも「くす(屈す)」がありますね。「くっす」の省略形です。文字数が少なくなるので、歌作りには活用しましょう。

海の向こうに、小鳥のように美しい声をもつ人魚がいて、星に訴えてしまった。あの恋の恨みを。

どういう意味にとりましょう。スピカが歌をつけた絵には、琴を持った人魚の絵が描かれていました。王子を殺すことができずに、泡となって消えていった人魚姫が、とうとう帰ってきて、あの恋の恨みを歌い始めたということでしょうか。

あきらめるつもりだったけれど。人間の月への裏切りがあまりにひどいものだから。わたしも自分が悲しくなったと。そう言って、とうとう、海の向こうから、もう何千という人魚姫が目覚めてしまったのだ。

こう考えると、ちょっと恐ろしいですね。でも、あり得ないことではないのですよ。






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本当の自分

2017-08-08 04:21:23 | 短歌





本当の 自分裏切る 決意した ときにあなたは 髪を切ったね





*これは、ツイッターで、「小菊」の名前で発表した歌です。小菊というのは、わたしたちが指導している女性の弟子の総合ネームです。

ここには天使以外にもたくさんの霊魂がいるのですよ。その中で、わたしたちの活動に心惹かれてくるものには、わたしたちは指導を与えるのです。

これはたしか、ある女性の歌人に対して歌われたものではなかったか。髪を断髪にした女性の歌人がいて、その画像をみながらわたしたちが痛いものを感じていた時、女性の弟子のひとりが、それを率直に詠んでくれたものでした。

おもしろいですね。こういう情感は、古語では難しい。現代語で詠んだ方がすっきりと伝わる。

その弟子によると、女性が髪を切る時には、こういう心理でいるときが多いそうですよ。本当の自分を裏切る、人間としてのやさしさを裏切る、そんなことをしようとしたとき、女性は髪を切ることが多いそうです。

その心理はわからないでもない。髪というのは自分の一部の中でも最も大事なものですから、それを切るということには重要な意味が生じる。

よくいう、失恋したときに髪を切るなどということも、ぐずぐずした自分と決別するという意味から生じる現象でしょう。

そのように女性は、本当の自分を切るときにも、髪を切ることがあるというのです。

女性に詠ってもらうと、かなりいたいものがありますね。男に見られているよりも、女に見通されていることの方がきつい。なんで髪を切ったのか。女性というのは案外、同性の心を見抜いている。

知ってるよ。あなた、あの子が、いやなんでしょう。だから、馬鹿なことしたいんでしょう。全然別の人間になって、いやなことしたいんでしょう。

この歌の作者は、その歌人に対して、そういうことを言いたかったようです。

それが正答かどうかは言う必要はありませんね。ただ、女性の感覚はするどいとだけ言っておきましょう。人間とはごまかせないものだ。ちょっとした変化。たとえばお箸を横においた、なんて何気ない動作からも、心理を見抜かれることがある。

これはそういう女性の、するどい感覚が詠ませた歌です。

なかなかに痛い。






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ひめさゆり

2017-08-07 04:18:16 | 短歌





白かれと 人にいふかは ひめさゆり うすべにのこゑ うつむきてをり





*今日もツイッターの歌から採用しました。いろいろたくさんの歌があるのですが、こういう切れ方をする歌は、わたしたちにしては珍しいので、とりあげてみました。

白くあれと人に言うのだろうか、ひめさゆりよ。いや、その声は聞こえない。薄紅色の表情が、うつむいているだけだ。

「かは」は、「~なのだろうか、いや、そうではない」という反語の意を表す係助詞です。係り結びですから、対応する語は連体形になりますが、それは省略されています。

「をり(居り)」は、「~している」とか「したままでいる」とかいう、状態の存続を表す動詞です。これがわたしたちには少し珍しいのです。わたしたちはこのように、停滞している状態で歌を終わるのは好きではない。動詞で結び、発展的に活動が広がっていくという感じが好きです。たとえばこのように。




にきしねの ゑのこあふぎて 人を見る 目にうれひすむ わけこそとはめ




にきしねのような小犬が仰いで人を見ているその目に、憂いが住んでいる。そのわけを問おう。

こんなふうに、自分の意志で何かをする、という歌が好きです。ですから表題のような、停滞する状況で終わる歌を詠んでいると、ちょっとむずむずする。もう少し発展していきたいという感じがしますね。

だがこれはこれでまたよい。ひめさゆりという花は、薄紅色の美しい百合の花です。おとめゆりともいいうつむきがちに咲く姿は奥ゆかしい。とても珍しい花で、本州北部の特定の山に登らなければ見られないそうです。

しかし花はうつむいてだまっているだけのようだが、それだけではない。見えないところで何かをしている。実にこの花は一度、かのじょに大事なことを教えてくれたことがあるのです。信頼していた友達が裏切っているということを、かのじょに教えたことがあるのです。

かのじょはそれを知って、辛いとは思ったが、その友達を切った。気づいてほしいと思いながら、少しずつ離れて行った。だが友達は何も気付くことなく、はなれていくかのじょをとめもしなかった。

それで失ったものは、実に大きかったのだが。本当に人間というものは、最も大事なものというのが、わからない。

ですが、かのじょのほうは助かったのです。もうその友達に苦しめられることはありませんでしたから。その友達は影でかのじょにいやなことをしていた。それなのにかのじょの前ではとてもいい友達の振りをしていた。そのいやらしさを、花にとがめられたのです。

花はうつむいて咲いていながら、その友達のことをとても嫌がっていたのです。それで、かのじょにはわかったのです。






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しじふしのしづのを

2017-08-06 04:19:09 | 短歌





しじふしの しづのをがゆく 荒野とは あるを愚かと 言ひしものの世





*今日もツイッターの歌から。これは葡萄式部が歌ってくれた歌です。葡萄式部というのはきつい名前ですね。紫式部をもじっているのだが、紫式部は偽物の作家ですから、そこに何らかの意味をくみ取れないこともありません。

「しじふしのしづのを」とは、44人の賤しい男という意味です。もちろんこれは、シジフォシアのしゃれから思いついた言葉です。シジフォスはギリシャ神話でゼウスの浮気を言いつけたため、石を背負って山に登ったと思うと石が落ちてしまう、また背負って登る、また落ちる、ということを永遠に繰り返さなければならなくなった人です。ゆえに徒労の代名詞にもなっています。

シジフォシアとは、自分というものを馬鹿にしすぎたものが行くところです。そこには何もない砂の野が広がっている。人間は何をしても徒労に終わるだけだから、ぼんやりとずっといるだけだという世界です。そういうところが、あるのです。

これはたくさんの人々に教えてあげて欲しいですね。地獄よりももっとつらい地獄です。何をしても何にもならないのです。幽霊よりもはかない姿になって、茸のように群がって存在することしか、ほとんどできないというところなのです。馬鹿なことをしすぎると、そういうところにいかねばならない。

44人の賤しい男がいくところ、という表現はおもしろいですね。洒落からおもいついた言葉だが、微妙に響きあう。44というのは、死をにおわせる四の数字が二つ重なっている。用法は違いますが、ふざけて44ers(フォーティーフォーラーズ)なんて言葉を思いついてくれた人もいました。49ers(フォーティーナイナーズ)というアメリカのNFLのチームがありますが、その元は1849年に一獲千金を夢見てカリフォルニアの金鉱に押し寄せた人たちのことを言いました。

金鉱に押し寄せるというのも品のいいことではないが、自分というものを馬鹿にすることほど愚かなことはない。44人の賤しい男というのは、そういうものの代名詞にもなるでしょう。面白い感じに使ってみればよい。馬鹿なことをした人間にこういうのです。そんなことをしていれば、45人目のしづのをになるよと。

フォーティーナイナーズには金で成功した人はいないそうです。一攫千金などほとんど夢でしかない。何の基礎的な徳も積んでいない人が、金鉱の恵みをあてこんでやってきても、何にもなりはしないのです。

歌というのはおもしろいことばが次々に生まれてきますね。「にきしねの」は枕詞として大いに育てていきたいところです。「白飴の」もなんだか「月」とか「甘し」の枕詞にできそうな雰囲気がある。歌をたくさんよんで、実例をこしらえていきたい。

こういうことは、大いに発展させていきたいものです。本当に豊かな人間になりたいのなら、こういう基本的な徳を、確実に積んでいくことが正しいのです。






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銀の小栗鼠

2017-08-05 04:18:56 | 短歌





浅茅生の 小野のかたへの 青楠に 銀の小栗鼠の 棲むを見る月





*これもツイッターから。今年の春の初めごろに読んでもらったものです。

「浅茅生の(あさぢふの)」は、「野」とか「小野」にかかる枕詞です。かのじょがよく遊んでいたあの小さな野原のことを詠むときには、よくこの枕詞を使います。浅茅の茅はカヤ草のことだ。要するに浅茅とは丈の低いカヤ草のことです。まあ、野原に生える普通の雑草と思えばよい。

そんな何気ない普通ののっぱらの隅に、あのくすのきはぽつんと立っていた。あの人は、そういうものに心惹かれる人でした。自分だけが、遠い故郷から離れて、全然別の世界に一人で生きているような気がしていたからです。だから、森や山から離れて、たったひとりで、野原の片隅に立っているくすのきを見ると、寄っていかずにいられなかったのです。

「銀の小栗鼠」とは、かのじょが鳥音渡の名前で出した架空の詩集のタイトルからきています。銀の栗鼠とは、自分の中にいる本当の魂の隠喩です。

自分の中には、銀の栗鼠のような何か暖かなものが息づいている。それはとても弱くて小さなものに思えるけれども、銀のように清らかで美しいのだ。

そういう魂が、あのくすのきの中にも見える。

木はもののように何も考えていないものではない。確かに何かを感じる魂があるのだ。銀の小栗鼠のような美しい魂を持ちながら、あのくすのきはあそこで何を考えているだろう。ひとりで、野の隅に立って、何を考えているだろう。

そんなことを思いながら、あの人は毎日のように、あのくすのきの元を訪ねていったのでした。きっと、ひとりでこの異郷に生きている自分と、響きあう心を交わせるだろうと。そしてその期待は、裏切られなかったのです。

くすのきも、かのじょに心を響かせてくれた。毎日のように会いにきてくれるかのじょを、深く愛してくれたのです。

愛の薄い人生の中にあって、かのじょにとっては、だれかが自分に寄せてくれた最も高い愛と言えましょう。

さびしいが、これが現実というものだ。愛に未熟な人間たちは、真っ向からあの人を愛することができなかった。だから、単純に嫉妬して、あのくすのきを伐ってしまった。そして、愛する人の命を縮めてしまったのです。

後で後悔しても戻らないが、しかし、二度と同じ過ちを繰り返さないことは、できるでしょう。







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人の世

2017-08-04 04:20:11 | 短歌





人の世を 憂きと難きと 思へども 捨て果てかねつ 鬼にしあらねば





*今日は本歌取りをあげましょう。知っていると思いますが、元歌は万葉集のこの歌です。




世の中を 厭しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば    山上憶良




山上憶良は、特筆すべき歌人ですね。素晴らしい歌人だからというよりも、凡庸な歌人という意味においてです。実にこのような歌は、かなり誰でも呼んでいるからです。世の中がいやだと言って捨てるわけにもいかない。鳥ではないのだからと。こういう思いは、普通の人間ならだれでも持っているのです。

ほかにも、子供のことを思った歌などが有名ですが、あれもなんだか、子供をだしに役人仕事から逃げるための言い訳の歌のように聞こえないこともない。かわいい妻子がわたしを待っているので帰らせてくれと。なぜ帰りたかったのでしょうね。嫌な仕事をさせられていたのかもしれません。人に頭を下げねばならないような、我慢ばかり強いられるような仕事を命じられていたのかもしれません。

山上憶良という歌人は、それなりの表現力はあったが、心はそれほど成長していなかったようです。それでもこのような歌が残って、有名になっているところが面白い。人の心に響くところがあったからでしょう。ですが、紀貫之のこの歌などと比べると、情趣が浅いのは明らかだ。




かきくもり あやめもしらぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは    紀貫之




一面に雲がたちこめている大空に、星があるなどと思えるだろうか、できはしない。

よく鑑賞して感じてみてください。憶良の歌は自分の身から離れていないが、貫之の歌は魂が飛んで空に吸い込まれているという感じがするでしょう。その分、貫之のほうが歌人として優れているのです。彼も役人としてつまらないことはせねばならない身分だ。だがそれをかけても、この世界で何かをせねばならない高い思いを抱いている。その思いが、星の世界のように高いことを、どこかで感じている。

だが暗い雲に覆われているこの世界からは、空の星など見えはしないのだ。

感性の高いものならば、時に感じざるを得ない人生への絶望を、これは歌っているのです。

しかしかといって、憶良の歌の価値が低いわけではない。意趣は凡庸だが、技術はかなりこなれている。凡庸な心をいい感じで詠ってくれた歌というのは、かなり使えます。

おもしろい本歌取りもできる。

人の世を、悲しいとか難しいとか思うことがあるが、馬鹿だと言って捨てきることもできない。わたしは鬼ではないので。

冒頭の歌はこういう意味です。わたしたちの心もこもっています。凡庸な人間ではいかんともしがたい世の中を、なんとかするために、鳥のようにこの世界に降りてくる存在もいるということです。






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青桜

2017-08-03 04:21:27 | 短歌





青桜 摺り衣をぞ 紗にかけて うつろにも似し 憂き世なりけり    葡萄式部





*今日は問題作をあげましょう。

この「青桜」という言葉が出てきたとき、ぞっとした人もいたのではないでしょうか。想像しただけで、何かが凍り付くような、正しいものがすべてだめになるような、そんな気がした人も多いのではないでしょうか。

青い薔薇なら何とかなる。仮定条件の中で存在する意味が生じる。

だが、青い桜とは。

そんなものがあったら、真実が一斉に消えてしまうような気がするのです。

「摺り衣(すりごろも)」とはヤマアイやツユクサなどで模様を擦りだした衣のことです。そんなものを紗にしてかけてしまうと、ものが見えなくなる。

青い桜などというものは、本来この世界ではありえないのです。なぜならこの世界は、そんなものとは全く違うものを基準にしてできているからです。

それをありえないものにしなければ、わたしたちが今住んでいる世界はとんでもないことになってしまうのです。

ですが、人間は、青い桜を作るようなことを、常にしているのですよ。
愛を馬鹿だというのがそういうことです。わかりますね。

愛が馬鹿であれば、この世界は存在できなくなるのです。すべてが馬鹿なことになり、何の意味もなくなるからです。人間はそういうことばかり言ってきて、この世界を壊し続けてきたのです。それをあらゆる愛の存在が支えてきた。

そして今、人間はとうとう、青い桜というものを知ったのです。いいですか、みなさん。青い桜というものは、あるのです。ただ、ここではありえないだけです。

あなたがたがその桜を見るということは、もうこの世界にはいられなくなったということなのです。

長い時をかけて、青桜の文様を擦りだしたころもを紗にかけるように、世界を馬鹿にしてきた、そんな虚ろな世界であったのだ。

人間はずっと、桜を青く染めるようなことばかりしてきたのです。






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ぴょんぴょんうさぎ

2017-08-02 04:22:02 | 短歌





ながみみは よきことききし さいはひか ぴょんぴょんうさぎ 月夜に光る





*これはスピカの傑作です。わたしたちのツイッターに発表された歌の中でも、最も人気が高いものです。

あなたがたは、表向きわたしたちの活動を無視しているようで、その反応はあからさまにわたしたちに伝わっています。スピカがこの歌を発表したときは、ツイッターのヘッダー画像からあなたがたの歓声が聞こえてきました。

すごくいい、こんなの詠んでみたい、なんてあなたがたの心の動きが、手にとるようにわかるのです。

いつまでも、馬鹿にしているとつらいことになりますよ。こういう歌を詠みたいのなら、まずすぴかの歌にいいねくらい入れてください。でないと、似た作品を詠んだだけで、盗作したことになっています。

本歌取りするにも、それなりの尊敬の念を現さねば、完璧に盗みになります。

表現者には、ルールというものがありますから。自分で自分の作品を作る苦労がわかっていたら、他人の作品も大事にできるはずですね。

それはともかくとして、この歌にはすぴかの個性がよく表れています。彼はこういうかわいらしくも美しい言葉が好きなのです。そこらへんが、かのじょにも似ています。ぴょんぴょんうさぎ、なんてことばはみなよく使うでしょうが、こういう切り取り方はすばらしい。特に最後の7の「月夜に光る」がすばらしい。この言葉はなかなか詠めません。

長い耳を神に頂いて喜んで踊っているうさぎが、月夜に光っている。美しいですね。もちろん、うさぎが光るわけはない。月を浴びて踊っている姿が、あまりにもうれしそうで、光っているようにさえ見えるのです。

光る、ということばは、発動する、という意味を含んでいる。自己存在が自らを発動するとき、その感覚は、光る、ということに似ている。

すばらしいですね。かわいらしい歌だが、彼の心が見事に現れています。透き通るほど言葉が映えている。

こんな歌を歌いたい人は、ぜひともすぴかにいいねをいれてください。







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