ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

けふ

2017-09-20 04:20:48 | 短歌





ゆふにじの 香りを夢に そそぎては 月を見し夜を けふにしのばむ





*ツイッターでは、締めの歌というのがありますね。わたしたちは一日にたくさんのつぶやきをします。大勢でやっているからなのですが、一日に八十回以上もツイートする時もあります。それも、一応七時半ごろに終わることにしている。わたしたちも眠って休まねばなりませんから。

それでいつしか、七時半ごろの締めの歌というのができてしまったのです。すぴかと沙羅が交代してやっていますが、そういうルールもいつの間にかできてしまいました。なんでも、決まりというのは気持ちがいいものですから。

パターンと言いますね。繰り返しのリズムというのは結構気持ちがいいものです。マンネリとかワンパターンというのは気持ちが腐ってきますが、適度なパターンは美しく心地よい。

風向きが変わってくるまでは、この習いを続けていこうと思っています。

表題の歌は、沙羅が詠んだ締めの歌です。だいたい、最後の七の冒頭が「けふ」ではじまるように決めている。すぴかと沙羅の微妙な個性の違いも楽しいでしょう。

夕虹の香りを夢に注いではあの月を見た夜を、今日に偲ぼう。

虹に香などもちろんありません。この場合は、虹に関する虹のような記憶の数々という意味でしょう。それを自分の夢にでも見て、あの月のように美しかった人のことを、今日の夜にでもしのぼうではないか。

そういう意味です。毎日歌を凝るのは結構大変だが、これはかなりできがいい。

「けふ」と書いて、「きょう」と読む。こういう古語の感触も気持ちいいですね。今日も終われば昨日になる。時は順繰りに送られて、名前も変わっていきます。ちなみにこの歌の「けふ」は、七月一六日のことでした。

その日何があったのかはもう記憶が薄れているが、そのときにはそのときの心の模様があったのだ。それも、いつしか、あのときのことだとして、思い出すときがあるかもしれない。

今は今の試練を乗り超えるのが精いっぱいで、昨日のことを思い出すのもできないほどなのだが。いつかは何かのしるしとして、わたしたちの中によみがえってくるのかもしれません。






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五十の小あり

2017-09-19 04:20:59 | 短歌





これは嘘 てふにもなれぬ おほありを 五十の小ありで なししものなり





*これは確か、ある歌人に挑戦した時の歌でなかったかと記憶しています。返歌は帰って来ませんでしたし、返信も消されたようだ。嫌だったんでしょうね、自分が否定されたことが。しかし対等の歌を返すこともできない。所詮は偽物だからです。できもしないことを、嘘で固めてやっているだけのことだ。

「五十」は「いそ」と読みましょうね。数字の読み方も、古い言葉では文字数が少ないので非常に便利だ。「八十」は「やそ」だし、「五百」は「いほ」だ。数が多いことを表すのに便利ですから、いろいろおさえておきましょう。

これは嘘の人間です。本当は蝶などではないのに蝶だと言っている大蟻のようなものだ。その大蟻も、多くの小蟻が結託してやって、作っているようなものだ。

これだけではよくわからないでしょうが、要するにその歌人は、本人はほとんど何もやっていなかったのです。ただ自分の人生にのっかっているだけ。いろいろな活動は、バックにいるほかのたくさんの霊が結託してやっていたのです。

それで、一見才能も美貌もある優れた人間のように見せていたのです。

そういうレベルの偽物の人間はたくさんいます。人から徳分を盗んで、かなりのステータスを得ていたりするが、目を見ると虚ろなのだ。何もしてないからです。ただ自分の中にいて、みんながやってくれる自分を感じているだけなのです。その中で、随分といいことを味わって、すごくいい気になっている。

自分はいいものだと思い込んでいる。その傲慢が、実にみっともない。

耳が痛いでしょうが、人間はこんな馬鹿なずるを、ずっとやってきたのですよ。

ですが、もうそれも限界に達した。こんな偽物の人間が、あまりに馬鹿をやりすぎて、この世界がひどいことになったからです。

神が本気で怒ったのです。

嘘で作った自分ばかり生きて、いい目を見てきた人間は、自分では何もやろうとせず、すべてを人から盗もうとする。そのためにあらゆる人を傷つけ、馬鹿にしてしまう。それでいろんな人が困って、社会が荒れて、大変なことになっているのに、責任も取らないで逃げるだけでなく、あまりにも傲慢に、自分はいい奴だと威張っているのだ。

もうそんなものは人間ではないのです。






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皿のまなこ

2017-09-18 04:45:47 | 短歌





久方の 月にもあばたは あるものと 皿のまなこに 月をおほひぬ





*「久方の」は「天」とか「月」とか「光」とか、天に関するものにかかる枕詞ですね。基本中の基本ですから歌を詠む人で知らない人はいないでしょう。月や空にあるものを詠いたいとき、調子を整えるのにとても便利です。百人一首のこの歌は有名だ。


久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ    紀友則


「久方」というのは、遠い、という意味でしょう。空にあるものは地上よりはるかに遠い。世知辛い世の中を生きている人間にとって、はるかに清く高いものを感じさせるのが空だ。枕詞はいつも訳することはしないが、強いて訳すなら、遠い彼方にある、とでも訳しましょうか。

遠い彼方にあるあの月にも、あばたのような欠点があるものだと、皿のように目を広げて見ている、それが月をまるごと覆っているかのようだ。

それはもう、人間というものは、美人の欠点を探すためには、熱心に骨まで見通すほど見つめるのです。それでいろいろなところを見つける。

目が若干細いとか、肩が少しいかっているとか、お鼻が少し上を向いているとか、あごが大きいだとか。そんなのはほんの少しで、かえってその子らしい個性でもあるのだが、馬鹿な人間は何でもいちゃもんをつけて、いやなものにしたがるのだ。

美人がうらやましくてたまらない。自分はどんなにがんばってもあそこまできれいになれないのだ。だからどうしても価格を下げて、安いものにしたい。それでないと自分がつらくてたまらない。

昔から馬鹿はそういうことばかりしてきたんですよ。人と自分は違いますから、どうしても他人への嫉妬という感情は湧くのだが、それで自分は無価値なものと決めつけてしまい、全然自分というものを生きなくなると、人間は馬鹿になって嫉妬ばかりするようになる。自分よりきれいな人、自分よりすごい人、自分よりできる人、みんながうらやましくてたまらず、そんな人を馬鹿にするためだけに生きるようになってしまうのです。

そして世界にある、あらゆる神の創造にケチをつけ始める。みんな馬鹿なものなのだと決めつけて、どんどん破壊していく。なんでもかんでもまぜっかえして台無しにしてしまうのです。

自分がつらい、自分は何もできない馬鹿だと思い込んでいる。そういう人間を馬鹿といい、それが究極、世界を滅ぼす悪魔なのです。

神が作ってくださった自分を信じないということが、すべての人間悪の始まりなのです。

月にはあばたがたくさんありますよ。知っているでしょうけどね、いろいろなクレーターがある。ここから見る月は真珠のように清らかだが。

だがそのクレーターが、かすかな文様となって、不思議な月の陰影を作るのです。その陰影がなければ、月は月ではない。

あのかすかな陰影を見て、人は何かを感じてきたのです。






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千尋の底

2017-09-17 04:19:25 | 短歌





たくなはの 千尋の底に 落ちてしを いかにひろはむ とほき月影





*「たくなはの(栲縄の)」は「長き」とか「千尋(ちひろ)」にかかる枕詞ですね。枕詞は便利で使いやすいです。数多く覚えておけば、とっさに歌を詠むときなどに呼び水となってくれます。

千尋の底というのは、要するに、千尋も深い谷の底という意味です。獅子が我が子を千尋の谷底に落とすなどという伝説は有名ですから、それからとっています。まあここでは、奈落の底に落ちてしまったという意味で使っていますが。

千尋の谷底のように深い奈落に落ちてしまった人を、いかに拾おうかと、あの遠い月は思っているのだ。

「月影」は月の光のことですが、ここでは月そのものを言い表します。

もう何度も言われているのでわかっているでしょうが、かのじょの本願は人類のすべてを救うことでした。それが可能か不可能かはべつのことです。ただ自己存在というものは、自分の心がそう思うことを裏切ることはできない。自分というものは、どうしても人間を一人も切ることができないと思えば、その存在はその目的に向かって生きるのです。

結果がどうかということは、後でついてくることだ。なんでもやってみねばわからない。自分がそれを本願として活動する限りは、少なくとも救われる人間の数は増えるに違いない。

これを馬鹿だという人はもういないでしょう。確かにあの人は、人類のすべてを救えるような日記を書いたのです。あれは、あの人でなければできないことだ。

ほかの天使なら違うことをしたでしょう。おなじ天使でも、考え方は全く違うからです。

すべてを救いたいと思う天使もいれば、だめなものは切る方がいいと考えるものがいる。どちらが正しいかという問題ではない。世界というものは、どちらの存在もいるから、なんとかなっていくのです。ですからわたしたちは、意見が真っ向から対立していても、論争したりはしない。互いに自分を信じたことをやっていけば、大いなる神の心の中で、何かになっていくのです。

結果的に、かのじょの思い描いていた人類の全てを救うという願いは、ほとんどかないませんでした。救おうと思っていた人間に、総攻撃を受け、倒れてしまったからです。このように、どうしようもない現実というものはある。そういうこともわかっているが、やらずにいられないのが、自分というものだ。

だがかのじょがやってくれたことは、それを見ていた人の心に残っている。

それが遠い未来に、何かになっていくだろうことは、確実に本当なのです。






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ちよろづ

2017-09-16 04:23:04 | 短歌





ちよろづの ちよろづも玉 くりかへし なす神の手の 揺らぐ空かな





*これは今さっき作った歌です。最近はいつもツイッターでツイートした歌を採用しているのですが、たまにはここだけのものをと思い、わたしが詠みました。

これはツイッターで葡萄式部が書いた詩片によっています。かなりの反響があったので、覚えている方もいるでしょう。この詩です。


おまえたちは両刃の剣だと神はおっしゃる
すべてが愛になってくれればよいが
ある程度は神の敵になる
神を妬んで人を殺すようにもなる
神は敵をも作っているのかもしれぬ
それでも
生まずにいられないのだ
あるということの悦びを
教えてやれるものを
ちよろづのちよろづも
創りたいのだ


神がなぜ万象をお創りになったのか。その訳の片鱗を語るという詩ですね。もちろん神の創造の秘密はもっと深淵で偉大です。これはほんとうにその中の一粒の砂について語ったようなものだ。

人類の段階試験という重要な時期にあって、あなたがたにも見えることがあるでしょう。進化の過程において、自己存在は迷いの果てに自分というものを壊し、あらゆる創造の敵となってしまうことがあるのです。

本当の自分を嫌がり、嘘で自分を無理矢理作るために、他者の存在を馬鹿にし、他者からすべてを盗もうとし、それがためにあらゆるものを壊していく。自己存在というものは、何も知らない無明の時期に、そういうものになってしまう恐れがあるのです。

自分自身の創造自体さえ馬鹿にする。存在の根幹をなす愛さえ愚弄する。あまりに自分がつらいからです。自分がまだ小さく弱く、美しくはないことが、つらくてたまらないのです。それゆえに、時には神にさえ嫉妬することがある。

そういう若いものたちを、神は本当にとても苦労して育ててくださる。最近、夢にまで見た神の声を感じた人も多いでしょう。その深い愛を知った人も多いでしょう。

太古の太古から、神はあまりにも美しく純真な愛で、すべてをやってきてくださったのです。

人間は何も知らなかった。だから勝手に神を自分で解釈して、幻のような神のうわさを世界中に吹き散らした。ほとんどは自分の我欲に利用するためにです。だがそれは間違いであることがとうとうわかった。

あなたがたはやっと、神の本当の心の片鱗を、見ることができたのです。

人間の魂をここまで育て上げるのに、どんなに神は苦労してくださったか。それもいつかしみじみとわかるようになる。

生きてあることを、馬鹿にしてはいけませんよ。それは愚かの極みだ。あるということがどんなに幸福かと言うことも分からないうちに、馬鹿なことを言ってはなりません。

学びましょう。空を見ればよく神がいらっしゃいます。それを感じつつ、人間は今の自分を生きていけばいい。美しいあの愛をたぐりながら、できる自分を積み重ねていけばいい。

大事なことはすべて、愛が教えてくれます。






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きのふこし人

2017-09-15 04:23:37 | 短歌





きのふこし 人にあはむと 立ち枯れの うつろに座る ゆふべなるかな





*これもすぴかの絵付き短歌のうちのひとつですね。あれは実に彼らしい表現でした。自分の好みで選んだ絵に、きれいな歌をつける。この歌がついていた絵は、確か大きな虚ろのある枯れ木に、寂しそうな熊がもたれかかっているという絵でしたね。

画家の名前は失念してしまいましたが、メルヘンチックでかわいらしい構図は彼の好みです。実に品のよい趣味だ。そういう彼の世界を伺い見るのは心地よい。

わたしではこういう仕事はできません。

昨日来た人に会おうと、立ち枯れてしまった木のうつろに座って待っている、夕べであることよ。待ってももう来はしないのに。

おとといきやがれ、などという言い回しがありますがね、不可能なことを言って、拒絶する言い方です。もう過ぎた時間に戻ることはできませんから、これは二度と来るなという意味になる。魚の声などというのと同じ用法です。捕まえ方によっていろいろな応用ができるので、やってみてください。

昨日ここに来ていたら、会えたかもしれないのに。昨日は来なかった。なぜ来なかったのか。たぶんそのときには、そんなことなど馬鹿なことだと思っていたのです。人に会うためにそこにいくことなど。そんな人に会いたいなどと思うのは馬鹿だと。だから行かなかった。そしてその結果、もう二度と会えないことになってしまったのです。

そういうことは多い。人間は、チャンスなど何度もあると思いたがるものだが。実に、そこを逃したらもう二度とないということは、よくあることなのです。たった一度の間違いが、人生のすべてを決めてしまうことがある。そしてだいたい、人間はその過ちを、終わってから気付くのだ。

次の日、約束の場所に行っても、会えはしない。なぜなら、会わないと自分で決めたからです。運命というものは、そうやって自分で決めているものなのだ。

立ち枯れの木のうつろというのがさびしいですね。もう終わってしまった夢をたとえているようだ。その木はかつて、豊かに生き生きと緑の葉を茂らせていた大きな樹であったろうが。終わってしまえばもうそれは残骸でしかない。そこで待っていても何もなりはしないのに、人は時々、いつまでも待っている。

会わなかった人が、ほかのどこにもいない、世界中でたったひとりのあの人だったとは、知らなかったからです。






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石くれ

2017-09-14 04:19:38 | 短歌





石くれも 積みて山とも なりぬれば 人も鹿をも やしなふものを





*ツイッターでは短期間のうちに5000首以上の歌を詠みました。脳みそは一つですが、詠んだ霊魂はたくさんいます。ですからこれだけのことができたのです。

いかにわれわれでも、ひとりではここまでできません。

これはツイッターで、百合と名乗っている人の歌です。これより先に蘭という人が出ましたのでね、それに習うようにして、よく考えもせず百合にしたらしい。ですが本人の実像を、この百合というかわいらしい名前から想像してはいけませんよ。

全然違います。詳しくは言いませんが、百合だなどという名前が、痛く似合ってしまう天使は、かのじょだけです。

まあ、名前などは、テキトーに考えてしまう傾向のある人です。この人のお陰で、その後にツイッターに出てきた人が、みな右にならえでテキトーに名乗るようになってしまいました。

それはそれで面白いので、別にいいのですがね。困るのは、名乗った本人が自分の名前を忘れてしまっているらしいことです。最近は、歌を詠んでツイッターに入れようとして、はて、自分の名前は何だったかと、思い出せないらしい。わたしたちも忙しいですから、いろいろやってるうちに失念してしまう。そういう感じで、今のツイッターはちょっとややこしくなっているのですよ。

多くの詠み手が、百合と桐だけを使うようになってしまったのです。最近百合や桐ばかり出てくるのはそのせいです。

まあそれはそれとして、表題の歌にいきましょう。

石くれのようにつまらないものでも、山のように積んでいけば、草も生え木も生え、人も鹿をも養うようになるものを。

「ものを」は終助詞ですね。「~のになあ」という風に訳されます。思いに反する現実などを見て詠嘆する調子ですね。

つまりは、人は石くれなどつまらないものだと思って何もしないのです。自分にできる小さな努力でも積み重ねていけば、よいことになっていくのに、つまらないことなどしないほうがましだと思って何もしない。そんなひとがたくさんいるといって嘆いているのです。

小さな自分ができることを、真面目にやっていくだけで、人間はどんどんよいことになっていくのに、そんな努力を馬鹿にして、人から盗むなどの嫌なことをしていいことになろうとするから、人間は痛いことになってしまうのだ。

ずる賢い知恵など本当は何にもならない。本当の自分の力が必要になる時に、何もできはしないのです。

本当の自分にできることを、まじめに積んでいきましょう。たとえそれが道路掃除くらいのことでも。本当の自分にできることなら、絶対にそれはよいことになっていくのです。






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つはもの

2017-09-13 04:21:01 | 短歌





やへがきを つくるかひなは おとろへて をみなばかりを みるつはものよ





*これはツイッターの名では葡萄式部の歌です。きついですね。まあ、瑠璃の籠の詩やツイッターの歌などから、彼の個性はなんとなくわかると思います。

ツイッターで、個性が強くわかる歌を詠っている者は、この時代で、とても重要な役割をしています。存分に痛いことを教えてくれますよ。

なにせここにはたくさんいますから、全部が全部、痛いことを言っては読者が混乱する恐れがある。だから、重要なメンバー以外は、あまり自分を主張しないように気をつけています。

シジフォスの荒野について、よく詠うのは彼ですね。とても痛いことをしているからです。人間は、人間を馬鹿にしすぎると、人間世界にいられなくなり、シジフォスの荒野、あるいはシジフォシアと名付けた、何もない黄昏の荒野に向かわなければならないのです。それは地獄よりもつらいところだ。

何もないからです。

そしてこの究極の時代、このシジフォシアに赴かねばならない人間が、たくさん出たのです。人間は悪を優位と信じて、あまりにも愚かなことをしすぎた。そして、馬鹿が賢いのだと信じて、何もやらなかった。

「八重垣」は、須佐之男命の有名な歌から来ていますね。知っていると思いますからここではあげませんが、要するに、愛する妻を守るために幾重にも作る垣のことです。

八重垣を作る腕も衰えて、女ばかり見ているつわものよ。お前は何をしているのか。今この時代、八重垣以上のものをこの世界に建てねばならないというのに。

女にばかりかまけて、男らしいことはほとんど何もやらない、ふやけた男を嘆いて詠った歌です。きついですけれどね、この究極の時代を突き抜けて、根性で人類を救ったのは男ではない。一人の弱い女性でした。誰もこの事実を曲げることはできません。

この真実を無理に曲げようとして、大勢の馬鹿な男があらゆることをしたが、それは今見事に全部ひっくり返っている。真実というものの根はあまりに深いのだ。ごまかし切れるわけがないのに、馬鹿男は自分の浅はかなメンツが壊れるのが嫌なばかりに、恐ろしく下手なことをする。

何もわかっていないからです。

この馬鹿が栄えに栄えた時代、人類の果たすべき課題を何もやらずに、女性の天使を馬鹿にしまくった男の中には、永遠に人間世界に帰って来れなくなったものが相当にいますよ。人類の救済を邪魔して、人類のすべてに嫌われたからです。

いい女とセックスをすることのためにだけ生きて、人類の救いをだいなしにして、何も責任は取らずに逃げたからです。






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天の大火

2017-09-12 04:22:02 | 短歌





ひとたびと 知らば二度とは 離られぬ 星こそ天の 大火なりけれ





*やあこれはいいですね。大火はアンタレスの異名です。ツイッターはいまやほとんど彼の独断場と化しています。

ちなみにこの項を書いているのは8月20日です。獅子の芸能界切りの真っ最中で、ほかの星がほとんど沈黙している中、彼だけがしゃべっています。

わたしもいることはいるのですがね、ちょっと毒気にあてられて、あまりよく歌が詠えないのです。いずれこれも終わるでしょうが、今は我慢の日々です。これが発表される頃には終わっているかもしれませんね。

彼はああいう人ですから、ほんとうによく語ります。沈黙している時はほとんどありませんよ。いつも何かしゃべっています。おもしろい人でしょう。あなたがたも、うるさいなというようなことは言いつつも、彼が何かしゃべってくれるのを楽しみにしているでしょう。

そういうあなたがたの顔を見ながら、こういう歌を詠うのが彼なのです。ここがまた魅力的だ、ちきしょう、と思いながらも引かれてしまう。

一度知れば二度は離れられない星、それが天の大火、すなわちこのわたしのことだ。

いやあ、なかなかここまで明るく言い切ることはできません。涼しい顔をしてあっけらかんと言ってくれるのだが、誰も反論できないことがもどかしい。

彼のことを、コル・スコルピイ、すなわちアンタレスと名付けたのはかのじょだが、その感性は正しい。夏のさそり座の真ん中にある星は、すぐに見つけられる。誰も間違いはしない。屈強の勇者でさえ、数秒で死ぬ毒をもつさそりの、心臓の所にある星。まさに彼そのものですね。彼も反論しません。喜んで名乗っていますよ。

わたしたちがそれぞれに有している星の名は、かなり自分の本質を表現していますよ。わたしはムジカという名を取りましたが、それにもかなり痛い意味があります。女性的で、元はラテン語で音楽という意味の普通名詞だ。詩人をのせて助けたといういるかの星だ。もうわかるでしょう。

わたしは影に控えてあまり目立たないところから、痛い人を助けていきたいのです。かのじょのような、おもしろい力のある人を助けていきたい。そういうことが好きな星なのです。

全天でもかなり目立つアンタレスや、いつでも人間がそればかり見ている月とは違う。この空のどこにあるかもわからないような小さな星だが、確かにおもしろいことをしている。

そういう自分がわたしは好きだ。

彼がその、あまりにもおもしろい自分を愛しているように。







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ばおばぶ

2017-09-11 04:19:14 | 短歌





いつはりの あをき実をなす 幻想の 暗きばおばぶ 伏すよしもがな





*これはかのじょの忘れられない歌から来ていますね。覚えていると思いますが一応また
あげておきましょう。こういうわたしのやり方はわかってきたでしょう。



花の実の 朱をあざむきて ことごとく あをきにしたり 阿呆の宴



歌の意はあきらかだ。本当は朱いはずの実を、嘘をついてことごとく青い実にしてしまった。それが阿呆の宴、すなわち馬鹿ばかりが栄えている今のこの世の中だと。

この歌が発表されたころは、何にもわかりませんでしたから、頭から馬鹿にしていたでしょうが、今ならしみじみとわかるでしょう。実際、人間世界は今まで、本当にさかさまになっていたのです。

いいものは悪いものに、悪いものはいいものになっていた。美しいものが醜いと言われ、醜いものが美しいとほめられていた。真実を見抜く目を持つことができるようになったら、そういう真実の姿がわかるでしょう。

かのじょは若いころからそれがわかっていましたから、なんとかあなたがたに伝えようとしていたのですが、何も伝わらなかった。数少ない理解者も、美しいとは思ってくれたが、真意を理解できるはずもなかった。

それがまあ、この時代の人間の姿というものです。

ばおばぶには罪はありませんが、星の王子さまの話に、星を壊す木として出てくるので、使わせてもらいました。

ありえるはずのない、幻想の青い実をつけるばおばぶの木を、倒す手段が欲しい。

「よし」は「理由」という意味のほかに、「手段、方法」とか「縁」とか「情趣」の意味がありますね。こういう文字数が少なくて意味に広がりのある言葉は押さえておきましょう。使いやすい。「ほど」「かた」「きは」「もの」などです。意味はそれぞれ調べてください。

星を壊すほど大きな偽りの木も、栄えに栄えていた時は、こんなものを倒すすべなどないとさえ思えたものだが。

さて、今はどうでしょう。






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