信州上田の・・・六文銭の写真帳
5月14日、藤の花の花見に近辺の散歩。
上田市前山・・・独鈷山中腹の林道・・・標高660mにある塩田平パノラマ展望台から。
こんもりとした山は山王山。木が生い茂って見えませんが戦没画学生慰霊美術館「無言館」はこの山の中に。
戦没画学生慰霊美術館「無言館」
以下は・・・2022年1月30日テレビ東京放映・・・日系スペシャル「野見山暁冶 私の履歴書」から・・・
戦没画学生の遺族を訪ね遺作をお預かりする旅は大変だったようです・・・詐欺のように見られたり。
苦労の末、1997年開館の運びに。資金は全国からの個人浄財により。土地は上田市が提供。
「絵」は画こうとする相手を 愛していなければ画けない・・・窪島誠一郎「私たちの無言館」より。
無言館・・・語ることのできない無言の絵にかわって、わたしたちが語るべきことはなんでしょうか。
戦没画学生慰霊美術館「無言館」
※撮影日は5月14日。
「戦没画学生慰霊美術館「無言館」の誕生・・・1974年NHKで「祈りの画集」という番組を放映。1977年NHK出版から「祈りの画集 戦没画学生の記録」という画集を出版。取材にあたっていたのは洋画家の野見山暁冶ほか。野見山はあの戦争末期の画学生、応召の満州で病を得て帰国、敗戦。多くの画学生が戦争で帰らぬ人になったのを見ていました。信州上田で美術館「信濃デッサン館」を開いていた窪島誠一郎が画集の野見山の取材記を読んで感銘、1995年の「槐多忌」に野見山を講師に呼び、会食の際に「祈りの画集」の話題が出て、窪島は戦没画学生の慰霊美術館の設立を決意。野見山を口説いて、その年から戦没画学生の遺族を訪ねる旅が二人三脚ではじまります。野見山75歳、窪島54歳です。
以下は・・・2022年1月30日テレビ東京放映・・・日系スペシャル「野見山暁冶 私の履歴書」から・・・
戦没画学生の遺族を訪ね遺作をお預かりする旅は大変だったようです・・・詐欺のように見られたり。
帰るときに、玄関にみんなのオーバーコートを吊るしてありますね。
それを着せてくれたお母さんの手が、ずーっと背中を触ったきり離れないんですね。
「あぁぁぁ」と思いました。
その一瞬で・・・「もうこれは僕がやるより手がないな」と。
それを着せてくれたお母さんの手が、ずーっと背中を触ったきり離れないんですね。
「あぁぁぁ」と思いました。
その一瞬で・・・「もうこれは僕がやるより手がないな」と。
苦労の末、1997年開館の運びに。資金は全国からの個人浄財により。土地は上田市が提供。
みんなね
親子、兄弟、友人、恋人、妻、子ども・・・ふるさと・・・
「あぁ 絵というものはこんなものだ そのなかに感情を没入してる」
親子、兄弟、友人、恋人、妻、子ども・・・ふるさと・・・
「あぁ 絵というものはこんなものだ そのなかに感情を没入してる」
「絵」は画こうとする相手を 愛していなければ画けない・・・窪島誠一郎「私たちの無言館」より。
無言館・・・語ることのできない無言の絵にかわって、わたしたちが語るべきことはなんでしょうか。
★野見山暁冶・・・1920年福岡県飯塚市に生まれる。洋画家、東京芸大教授、名誉教授。中学生のときから肺疾患、東京美術学校卒業、応召。満州に。肺疾患で入院、内地に送還され敗戦を迎えます。一緒にいた戦友はどうなったか。仲間を見殺しにして敵前逃亡したのではないかと・・・その思いがきっかけとなり、当時の絵を志した画友たちの絵を捜し歩きます。
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そこで気が付くことは、幼少期から、少年時代、20歳くらいまでが大事なんだな~…と、この歳になって思うことしきりです。
1つのことについて名を完成させる!!凄いことなんだな~と思っています。
野見山暁冶もやはり小さいときの才覚と感性が有ったのでしょう。
5月「私の履歴書」が、マンガ家の里中満智子さんでした。
高校生時代に鮮烈なデビューを飾って以来、第一線で活躍し続けています。
やはり幼小・少女時代才覚が凄かった。
「私の履歴書」ゴーストライターの書いた嘘っこも多いでしょうが、感銘するところもあります。
人はひとりでは成らず、よき親、兄弟、教師、友人…影響を受けて大きくなってゆきます。
野見山暁冶・・・飯塚の炭鉱主の倅、生活の面では苦労なく育ったようです。
過酷な戦争体験がこの人を大きくしたようです。
6月9日にこの度の記事を転載させて頂きご紹介させて頂きたく
ご了解を頂きたく宜しくお願い申し上げます。
そんな気がします。
仕事も売らんとする品物などが好きでないと相手に品の良さが伝わらぬものだと思います。
テレビを見て刺激を受け、さらに出かけてみようと背中を押してくれます。
当方は、5月にスマホを1円で変えました。
ガラケーサービスは終了したと思ってましたが、もう三年間ほど使えるらしいですね( ^ω^)・・・❔
まずは、ガラケー同様に電話を架けるだけでも好いと思います。余暇に使ってみたいスマホ機能を活用すると、新しい世界が広がるかもしれません。
そんな気がします。
仕事も売らんとする品物などが好きでないと相手に品の良さが伝わらぬものだと思います。>
農家でもラーメン屋でも製造業でも同じですが自分の作ったものに愛情が無ければろくな品になりません。社員、スタッフに笑顔のない会社の品にろくなものはありません。
ガラ系携帯・・・妻と共用、普段は棚の飾り物、どちらかが外出の時に、緊急用として持っていきます。妻は依然として使い方がよくわからないようです。
普段は固定電話、電話番号登録、留守番電話に。1日に数回、登録以外の電話あり,無視。
固定電話もいずれガラパゴスになり消えていくようですね。
スマホ…考えます。
その中で必ず野見山暁治さんのお名前をお聞きしました。野見山さんと全国の戦没画学生のお宅を訪ね歩いて出来た無言館。
もう一度行っておきたかった場所です。
二人三脚の大きな仕事でした。
窪島と実父水上勉さんとの数奇な物語、ダイジェストです。
https://blog.goo.ne.jp/haru1832/e/f93720a80d1f55a357777dc99cd2dc2f