11時2分。8つ違いの、それこそ母親代わりの姉と一緒に2階にいた。
何をしていたのか知らない。この時起きたことの記憶も半ばおぼろである。
ピカっと光り、ドーンというすさまじい音がして、
家中がガタガタとすごく震えたことはわずかに覚えている。
3歳になったばかりの僕を、姉はひっ掴むようにして抱き、逃げ降りたのだそうだ。
爆心地から3.5㌔、しかも山陰であったことが幸いし、我が家は無事であったが、
「家が吹き飛んでしまうかと思った。本当に恐ろしかった」
後日、姉はその恐怖をそんなふうに語った。
75年前の今日。長崎に原爆が落とされた。
小さい頃、僕らは原爆のことを〝ピカドン〟と言っていたが、
この〝ピカドン〟によって7万4000もの人が亡くなったのである。
爆心地近くに住んでいた母の妹一家も全滅した。
母は、半ば諦めの気持ちで被爆地へ妹を探しに行ったのだが、
結果はやはり虚しかった。
この時、母に同行した長兄。この時16歳であったはずだが、
長ずるにつれ、打ち身によってできたアザでさえ、
「これは放射線のせいではないか」などと
2次被ばくにおののくことがよくあった。
僕自身も「被爆者健康手帳」を所持する身だが、幸いこれまで異常はない。
「行動の広島、祈りの長崎」──今はもうそんなことはないと思うが、
かつてそんなふうに言われたことがある。
同じ被爆地でありながら、反戦・反核を積極的に行動で示す広島に対し、
長崎はそれを行動に示すことがないことを揶揄したものだった。
実は長崎の爆心地・浦上地区は敬虔なキリスト教徒が多く住んでいた所だ。
そのシンボルとも言えるのが浦上天主堂であるが、この教会も原爆によって壊滅し、
焼けただれたマリア石像はよく知られている。
そうした宗教的な意味合いも込めて「祈りの長崎」だったのである。
ただ、長崎は祈っているだけではない。
すでに息絶えた幼い弟を背負い、唇を噛みしめ真っすぐ前を見る、
あの「焼き場に立つ少年」。米軍の従軍カメラマンが撮影したこの写真は、
ローマ教皇・フランシスコの呼びかけによって
反戦・反核を訴える貴重な写真として世界中に広められた。
少年の噛みしめた唇からにじむ血、これこそ反戦・反核の訴えであろう。
当家の墓もまた、爆心地の近くにあった。
祖母に連れられ、よく墓掃除に行ったものであるが、
コンクリート塀に埋め込まれた鉄柱は、
熱線に焼かれぐにゃりと折れ曲がっていた。
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7月31日以来、夏休みをいただきました。
にもかかわらず、この間多くのリアクションを頂戴し、
本当にありがとうございました。
心からお礼申し上げます。公私にわたり少々多忙な日々でありましたが、
多少軽くなってきましたので、ブログを再開しようと思います。
ただ、以前のように毎日更新というのには、
もうしばらく時間が必要だろうと思います。
ご容赦ください。今後もよろしくお願い致します。
お帰りなさいませー。
昔昔新聞の声の欄に載っていた記事が忘れられないです。
子どもが生まれれば子どもの心配…孫が生まれれば孫の心配…生きている限りはずっと放射能のことが頭から離れずと。
落とした側の倫理ばかりで落とされた側は置き去りにされたままで。
今日も長崎は快晴でしょうか、、、。
長々と失礼しました。
今、長崎の平和祈念式典をテレビで見ていますが、晴天ですね。実は、あの日もこんな良い天気だったようです。
私の父は山口生まれで15年生まれ、東京に中卒で出てきました
そんな父は、毎年帰省して山口の海や広島の原爆ドームにつれていってくれました
我が息子も、四年生の時、学校を1週間休んで広島に私の運転でGO 。山口のお墓参りに行きました
これからも、父のように読ませていただきます…あっでも父より若いかなぁ😃