Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

8月9日

2022年08月09日 09時19分09秒 | 思い出の記

被爆者健康手帳をいただいている。
昭和20年8月9日午前11時2分。
爆心地から3.5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある辺りで
被爆した一人である。
だが、3歳になったばかりであり、
原爆投下時の記憶はほとんどない。
わずかに何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音がしたな、
と言った程度の、それもうっすらとした記憶である。

              

当家の墓は、原爆爆心地に近い浦上地区にあり、
両親、兄、姉たち家族が一緒に眠っている。
小学低学年だった頃、祖母に連れられて、よく墓掃除へ行った。
結構広く立派な墓地だった。
おそらく、欧米の映画でよく見かける鉄柵を巡らした、
あのようなものだったのではないかと思う。
なぜなら、墓掃除へ行った際、石柱に埋め込まれた
ヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって
何本も残っていたからである。
「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」
祖母からそう聞かされ、そしてぐにゃりと曲がった鉄の棒を見て、
原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど
力が強いものだと子供ながらに初めて知った。

     

実は爆心地近くには母の妹家族が住んでいた。
母は長男を連れ、その消息を求めて爆心地に入ったのだが、
1人として残っていなかった。
近くを浦上川が流れている。
投下直後、多くの被爆者がここに水を求めてやってきた川である。
今はそんなことも知らぬげに穏やかに流れている。

長崎に原爆が投下されて77年。
今朝のテレビニュースを見ていると、
爆心地に建立されている平和祈念像、
それに浦上天主堂のミサの様子が映し出されていた。
教会の鐘の音は、かすかであろうが墓地まで届く。
11時2分、ここ福岡の地から平和への祈りを捧げる。

        (昨年書いたものを加筆・修正したものです)

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kaniasi90)
2022-08-09 21:58:13
77年間、この日を忘れる事はなかった事でしょう。
この惨劇に遭われた皆さまの心の平和と平穏を心から願います。

以前、平和公園を訪れた時の悲しみを忘れる事ができません。
なにも出来ない身ではありますが、ただただ世界の平和を祈ります。

貴重な体験談、ありがとうございました。
返信する
Unknown (Toshiが行く)
2022-08-10 09:02:18
kaniasi90さん ありがとうございます。
38歳まで長崎に住んでいましたが、長崎は和・華・蘭の文化が入れまじった異国情緒の街であると共に、常に原爆を意識させられる所でした。幸い私は原爆症に悩まされることもなく今日まできましたが、市内には多くの苦しまれている人たちがいらっしゃることを知っています。しかし、その方たちも高齢になられ、他界される方が多くなっています。核兵器の恐ろしさ、愚かさを語り継ぐ人たちが少なくなっていることが心配です。
返信する
Unknown (coicoi_64)
2022-08-13 01:00:10
子供の頃の研究授業に 長崎
原爆投下をしらべた記憶を
思い出しました
ワタシのそばに、とても大切
なものを持って生きて来られ
た方がいらしたと知って、
驚きで 一旦blogを閉じまし
たが、また戻ってしまいまし

8月9日11時02分に 役所の放送
もあり黙祷を捧げております
特別なことが申し上げられま
せん、文章も全くうまくあり
ません、
ただ、お伝えしたいと思うこ

今日迄 生きて来てくださって
ありがとうございます
この先もずっとお元気で、長
生きしてくださいませ
感謝しております✨
返信する
Unknown (Toshiが行く)
2022-08-13 10:10:42
coicoi_64さん おはようございます。原爆被爆の悲惨さは言うまでもありませんが、僕らが小さい頃は被爆者に対する差別視がかなりひどかったですね。特に女性に対してそうで、「被爆した女性とは結婚してはいけない」などと公然と言われていました。今はそんなことはありませんが、小さい頃、僕自身も少しいやな思いをしたことがあります。戦争はいやですね。同じ国民なのに人の心さえ捻じ曲げてしまいます。
返信する

コメントを投稿