もう一度、「Sound of Silence」を歌ってみたいな
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (from The Concert in Central Park)
「仕事をすっかりやめたら、あなたは日々どう暮らしていくのでしょうね。
格別、趣味といったものもないし、お友達も数えるくらい。ちょっと心配だわね」
写真クラブの仲間とたびたび撮影に出かけ、
また身近に何人もの友人を持つ妻が心配気にそう言う。
今は週3日出勤し、わずかではあるが仕事らしきものをこなしているので、
何とか人とも社会ともつながることが出来ている。
それが日々を成り立たせる支えともなっているのは間違いない。
その支え棒がなくなった時、自力でどう過ごしていくか、いけるのか
──妻はそれを案じているのだ。
「歌を忘れた爺さん」は、自身、「どうしたものか」いささか心細くなる。
実を言えば、「なーに、こうやってブログを書き、歌のレッスンに通えば、
心配することはない」と高をくくっていた。
ところが、「書く」ことはともかく、70歳から始めた歌のレッスンに通う
ことがまったく出来ずにいるのだ。言うまでもなく、コロナのせいだ。
昨年2月、レッスンの成果を発表するライブが予定されていた。
そのため、週1~2回はレッスンに通っていたのだが、
コロナの感染拡大によって急きょ中止となってしまった。
以降、レッスン通いも控えている。
何せレッスン用のスタジオは防音装置を施した密閉された部屋だ。
年寄りは用心せざるを得ない。
そんな状況が、もう1年近く続いているのである。
家にはカラオケセットもあるが、そうそう大声を出すわけにもいかないし、
家で1人歌うのも気合いが入らない。どこぞにしまい込まれたままだ。
まさに「歌を忘れた爺さん」なのである。
カナリアのように美しい声が出るわけはなく、むしろ聞き苦しいほどの
かすれ声なのだが、声は出さなければ、どんどん出なくなるに違いない。
コロナが終息しても、もう無理かもしれないと悲観的になる。
「歌うことをなくした爺さん」は、さてどうしたものやら。
別に支え棒となるものを見つけなければならないだろうか。
ああ、それもこれもコロナの奴のせいだ!
いや、コロナのせいにするのはよそう。
残された日々を楽しく過ごそうと思うなら、
やはり自力で立ち、歩くしかない。
何かあるだろう、見つかるだろう。
ゆったり構えることにする。
そして、楽しいことを見つけてお裾分けしてください。
カナリヤおじ様の声はかすれ声ではなく、ハスキーなのですから、歌わなくとも朗読を聞かせて頂けたらと思います。
今年もゆったりファイト!です。
私もサウンド・オブ・サイレンス大好きです。
でも、こうして映像で観るのは初めてです。
夕食の支度前、気持ちが落ち着きました。