歴史は「断片」の形で発見されます。発掘された遺物、一冊の本、言い伝え……それらに「歴史としての意味」を与える作業は、「断片」を組み立てることで時間の流れの中になにか立体的なものを現出させることです。
よく見かける単純な陰謀史観のようなものが面白くないのは、断片を組み立てられてできたものが薄っぺらくて平面的でちっとも立体的で深みがないからです。それは「断片の量」が少ないからそうならざるを得なかった、ではありません。
歴史から離れて私たちの世界を眺めたら、それが「モノ」だけから構成されているわけではないことがわかります。それらのモノは人あるいは人の思いでつながれています。歴史も同じです。薄っぺらな歴史観が面白くないのは、薄っぺらな人間が薄っぺらで狭い視野の自分の思い(薄っぺらな品性)だけで「断片」をつなぎ合わせてしまったからでしょう。
【ただいま読書中】
『ピラミッド以前の古代エジプト文明 ──王権と文化の揺籃期』大城道則 著、 創元社、2009年、3500円(税別)
私にとって、エジプトと言えばピラミッドとクレオパトラですが、ピラミッド以前にもエジプトには長い長い歴史があります。
紀元前12000年ころから気候が湿潤化し、現在の砂漠地帯にも緑が豊富になりました。北アフリカの人々の活動範囲は拡大しますが紀元前7000年頃から乾燥化が始まり、人々はゆるやかにナイル流域に集中し始めます。紀元前5000年ころ下エジプトにメリムデ文化(エジプト最古の新石器文化)が出現します。同時期下エジプトにはファイユーム文化があり、上エジプトにはバダリ文化が出現します。それらはエンマ小麦の栽培や家畜の種類(牛、豚、羊、山羊)は共通でしたが埋葬形態や副葬品が異なり、起源は異なる、と考えられています。上エジプトにはアフリカ文化の影響が、下エジプトには西アジアの影響が大なのです。その頃から「国際交流」があったんですね。
紀元前4000年頃にはナイル流域に農業共同体が多数形成され、最終的には一つの王国になりますが、それまでを「先王朝時代」と呼びます。この時代のナカダ文化の発掘調査は1894~95年にピートリらによって行なわれましたが、それまでの「宝探し」ではなくて初めて記録を詳細に残す「近代考古学」の始まりとなる調査でした。(「日本考古学の父」と呼ばれる京都帝大教授浜田耕作はイギリス留学中にピートリ邸に長期滞在し(ホームステイ? 居候?)、その縁で京大にはピートリからエジプトの遺物が寄贈されました。しかし著者は「もっと重要なのは、ピートリの方法論が浜田を通じて日本に持ち込まれたこと」だと述べます)
やがて上エジプトのナカダ文化はゆるやかに下エジプトのデルタ地帯に浸透していき、最終的に文化的統一を果たします。(古代中国の、殷→周を私は連想します) 「王」がどのように成立したか、「最初の王」が誰だったかはわかりません。それを探る材料としては、エジプト神話・ギリシアの文献・考古学の出土品、がありますがそれぞれが食い違っているのです。(日本の、神話・魏志倭人伝・考古学の出土品、を私は連想します。ただ日本の場合は、神話と他国の文献がちょっと薄すぎるのが残念。「後漢書倭伝」なんてものもありますが、これは「魏志倭人伝」の劣化コピー、が学界の定説のようで、実際に私も読んでみてすぐにその意見に賛成してしまいました。)
神話だから信用できない、というのもまた偏狭な態度ではあります。神話の内容が文字通り「真実」かどうかは別として、たとえば「王の名前」には当時の人々の意思が込められているはずです。つまりそれ自体が「メッセージ」として扱えるのです。その観点から本書では「王の名前」について専門的に検討されている論文がありますが、私はそのへんは退屈なのであっさり読み流します。ちょっともったいないかな。
パレスティナの発掘調査で、当時のパレスティナの諸都市が古代エジプトと関係が深いことがわかりましたが、時代によって出土品に消長があります。陸上交易のパレスティナと、海上交易のシリアでの一種の「綱引き」があった様子です。このへんを出土品から読み解いていく作業は、とても興味深く面白いものでした。また、ナイル川の移動は、下りは流れに乗って容易、上りは帆を張ればしょっちゅう北風あるいは北東風が吹いているからこれも容易、なのだそうです。ちょっと都合が良すぎる気もしますが、だから「エジプト」がナイルを軸として一つにまとまったのでしょう。
よく見かける単純な陰謀史観のようなものが面白くないのは、断片を組み立てられてできたものが薄っぺらくて平面的でちっとも立体的で深みがないからです。それは「断片の量」が少ないからそうならざるを得なかった、ではありません。
歴史から離れて私たちの世界を眺めたら、それが「モノ」だけから構成されているわけではないことがわかります。それらのモノは人あるいは人の思いでつながれています。歴史も同じです。薄っぺらな歴史観が面白くないのは、薄っぺらな人間が薄っぺらで狭い視野の自分の思い(薄っぺらな品性)だけで「断片」をつなぎ合わせてしまったからでしょう。
【ただいま読書中】
『ピラミッド以前の古代エジプト文明 ──王権と文化の揺籃期』大城道則 著、 創元社、2009年、3500円(税別)
私にとって、エジプトと言えばピラミッドとクレオパトラですが、ピラミッド以前にもエジプトには長い長い歴史があります。
紀元前12000年ころから気候が湿潤化し、現在の砂漠地帯にも緑が豊富になりました。北アフリカの人々の活動範囲は拡大しますが紀元前7000年頃から乾燥化が始まり、人々はゆるやかにナイル流域に集中し始めます。紀元前5000年ころ下エジプトにメリムデ文化(エジプト最古の新石器文化)が出現します。同時期下エジプトにはファイユーム文化があり、上エジプトにはバダリ文化が出現します。それらはエンマ小麦の栽培や家畜の種類(牛、豚、羊、山羊)は共通でしたが埋葬形態や副葬品が異なり、起源は異なる、と考えられています。上エジプトにはアフリカ文化の影響が、下エジプトには西アジアの影響が大なのです。その頃から「国際交流」があったんですね。
紀元前4000年頃にはナイル流域に農業共同体が多数形成され、最終的には一つの王国になりますが、それまでを「先王朝時代」と呼びます。この時代のナカダ文化の発掘調査は1894~95年にピートリらによって行なわれましたが、それまでの「宝探し」ではなくて初めて記録を詳細に残す「近代考古学」の始まりとなる調査でした。(「日本考古学の父」と呼ばれる京都帝大教授浜田耕作はイギリス留学中にピートリ邸に長期滞在し(ホームステイ? 居候?)、その縁で京大にはピートリからエジプトの遺物が寄贈されました。しかし著者は「もっと重要なのは、ピートリの方法論が浜田を通じて日本に持ち込まれたこと」だと述べます)
やがて上エジプトのナカダ文化はゆるやかに下エジプトのデルタ地帯に浸透していき、最終的に文化的統一を果たします。(古代中国の、殷→周を私は連想します) 「王」がどのように成立したか、「最初の王」が誰だったかはわかりません。それを探る材料としては、エジプト神話・ギリシアの文献・考古学の出土品、がありますがそれぞれが食い違っているのです。(日本の、神話・魏志倭人伝・考古学の出土品、を私は連想します。ただ日本の場合は、神話と他国の文献がちょっと薄すぎるのが残念。「後漢書倭伝」なんてものもありますが、これは「魏志倭人伝」の劣化コピー、が学界の定説のようで、実際に私も読んでみてすぐにその意見に賛成してしまいました。)
神話だから信用できない、というのもまた偏狭な態度ではあります。神話の内容が文字通り「真実」かどうかは別として、たとえば「王の名前」には当時の人々の意思が込められているはずです。つまりそれ自体が「メッセージ」として扱えるのです。その観点から本書では「王の名前」について専門的に検討されている論文がありますが、私はそのへんは退屈なのであっさり読み流します。ちょっともったいないかな。
パレスティナの発掘調査で、当時のパレスティナの諸都市が古代エジプトと関係が深いことがわかりましたが、時代によって出土品に消長があります。陸上交易のパレスティナと、海上交易のシリアでの一種の「綱引き」があった様子です。このへんを出土品から読み解いていく作業は、とても興味深く面白いものでした。また、ナイル川の移動は、下りは流れに乗って容易、上りは帆を張ればしょっちゅう北風あるいは北東風が吹いているからこれも容易、なのだそうです。ちょっと都合が良すぎる気もしますが、だから「エジプト」がナイルを軸として一つにまとまったのでしょう。