最近の日本ではいろんなものが崩壊しています。農業・林業・年金・老人や障害者の福祉・労働環境・セーフティネット・医療・教育。きっちり保全されているのは官僚だけ?
【ただいま読書中】
『論争・学力崩壊』「中央公論」編集部・中井浩一 編、中公新書ラクレ、2001年、760円(税別)
学力に関する論争は、イデオロギー闘争になりがちです。一番代表的なのが、文部省・教育委員会vs日教組。しかしそこにあるのは「イデオロギー」であって「子どもの姿」「学力の定義」「学力が落ちている証拠の提示」などは存在しません。
本書では、そういった従来の枠組み(不毛な論争)から離れ、「リアルな議論」「実証」「十分な根拠」を求めます。というか「教育」を理念だけで語ったら、子どもが一番不幸になります。
本書でも東大の苅谷さんと文部省の寺脇さんとの対談で、苅谷さんはしきりに「実証」「検証」「印象論ではなくて」を(執拗にと言って良いほど)繰り返します。それに対して寺脇さんは、明らかに分が悪い。自分の主張の根拠を示せないのですから。それは、根拠を示したら都合が悪いから戦略的にそうしているのかもしれませんが、もしかしたら自分の主張に根拠を欠いているからかもしれません。「学習指導要領はミニマム(各学校がそれにどんな上乗せをしても良い」と言いつつ、教科書検定では学習指導要領を遵守させたり、「学校も教師も変われ」と言いつつちゃっかりそこから「文部省」を落としたり(つまり文部省は変わらないという主張です)、ひたすら美しい概念を述べて苅谷さんに「その根拠は? 具体的に現場でそれが実行可能?」と問いかけられたらひたすらだんまりだったり、ご自分の想念と言葉の美しさに酔っているだけのようにも見えます。リアルじゃありませんから言葉に説得力がありません。さらに、二言目には「国民の選択」と言いますが、国民がどうやって文部省に自分の意思を届けるのか、道筋がありましたっけ? なんだか自分が好き放題やって責任だけ「国民」に押しつけようとしているように見えて、私は不愉快になってしまいました。
そうそう、あまり「リアル」ではありませんでしたが、本書に含まれている中で一番私の心の奥に届いたのは清水義範の論考でした。
さらに、20世紀末に文部省が行なったのは、学習内容の3割を一律削減でした。こうすることで「落ちこぼれ」をなくすのだそうです。
あほか、と思います。「学力」が「知識量」のことなら、覚える量を減らせば「覚えられない量」は減る可能性があります(確実ではありませんが)。しかし学力には「学ぶ力」の側面もあります。つまり「一を聞いて十を知る」までは行かないまでも、「10を学んで9を身につける(1を取りこぼす)」のが優等生で「10を学んで5を身につけるのが劣等生」といった感じに。だとしたら学習量を「10から5に落と」したら、優等生は4.5を身につけ劣等生は2.5を身につける、だけじゃないかな。「優等生も劣等生は5」になるかわりに。ところで「優等生も劣等生も同じ」教室って、どんなの意味や意義があるんだろう?
生徒へのアンケートが笑わせてくれます。「良い成績に充実感を感じる」にイエスは、日本3割・米国7割・中国7割。「良い給料が欲しい」にイエスは、日本7割、米中は少数。「偉くなると責任が増えるからイヤだ」にイエスは、日本51%・米16%・中36%。一言で言ったら、日本の子どもは甘やかされて楽したがっている?
そうそう、「最近の子どもは学力が落ちている」と世を憂えている人は、自分の子どもの勉強の面倒を見ることくらいできるんですよね。理論的には「親の世代より子の世代の方が学力が落ちている」わけですし、具体的には最近の義務教育の教科書は昔よりずいぶん薄っぺらになって中身も軽くなっていますから、楽ちん(のはず)でっせ。
【ただいま読書中】
『論争・学力崩壊』「中央公論」編集部・中井浩一 編、中公新書ラクレ、2001年、760円(税別)
学力に関する論争は、イデオロギー闘争になりがちです。一番代表的なのが、文部省・教育委員会vs日教組。しかしそこにあるのは「イデオロギー」であって「子どもの姿」「学力の定義」「学力が落ちている証拠の提示」などは存在しません。
本書では、そういった従来の枠組み(不毛な論争)から離れ、「リアルな議論」「実証」「十分な根拠」を求めます。というか「教育」を理念だけで語ったら、子どもが一番不幸になります。
本書でも東大の苅谷さんと文部省の寺脇さんとの対談で、苅谷さんはしきりに「実証」「検証」「印象論ではなくて」を(執拗にと言って良いほど)繰り返します。それに対して寺脇さんは、明らかに分が悪い。自分の主張の根拠を示せないのですから。それは、根拠を示したら都合が悪いから戦略的にそうしているのかもしれませんが、もしかしたら自分の主張に根拠を欠いているからかもしれません。「学習指導要領はミニマム(各学校がそれにどんな上乗せをしても良い」と言いつつ、教科書検定では学習指導要領を遵守させたり、「学校も教師も変われ」と言いつつちゃっかりそこから「文部省」を落としたり(つまり文部省は変わらないという主張です)、ひたすら美しい概念を述べて苅谷さんに「その根拠は? 具体的に現場でそれが実行可能?」と問いかけられたらひたすらだんまりだったり、ご自分の想念と言葉の美しさに酔っているだけのようにも見えます。リアルじゃありませんから言葉に説得力がありません。さらに、二言目には「国民の選択」と言いますが、国民がどうやって文部省に自分の意思を届けるのか、道筋がありましたっけ? なんだか自分が好き放題やって責任だけ「国民」に押しつけようとしているように見えて、私は不愉快になってしまいました。
そうそう、あまり「リアル」ではありませんでしたが、本書に含まれている中で一番私の心の奥に届いたのは清水義範の論考でした。
さらに、20世紀末に文部省が行なったのは、学習内容の3割を一律削減でした。こうすることで「落ちこぼれ」をなくすのだそうです。
あほか、と思います。「学力」が「知識量」のことなら、覚える量を減らせば「覚えられない量」は減る可能性があります(確実ではありませんが)。しかし学力には「学ぶ力」の側面もあります。つまり「一を聞いて十を知る」までは行かないまでも、「10を学んで9を身につける(1を取りこぼす)」のが優等生で「10を学んで5を身につけるのが劣等生」といった感じに。だとしたら学習量を「10から5に落と」したら、優等生は4.5を身につけ劣等生は2.5を身につける、だけじゃないかな。「優等生も劣等生は5」になるかわりに。ところで「優等生も劣等生も同じ」教室って、どんなの意味や意義があるんだろう?
生徒へのアンケートが笑わせてくれます。「良い成績に充実感を感じる」にイエスは、日本3割・米国7割・中国7割。「良い給料が欲しい」にイエスは、日本7割、米中は少数。「偉くなると責任が増えるからイヤだ」にイエスは、日本51%・米16%・中36%。一言で言ったら、日本の子どもは甘やかされて楽したがっている?
そうそう、「最近の子どもは学力が落ちている」と世を憂えている人は、自分の子どもの勉強の面倒を見ることくらいできるんですよね。理論的には「親の世代より子の世代の方が学力が落ちている」わけですし、具体的には最近の義務教育の教科書は昔よりずいぶん薄っぺらになって中身も軽くなっていますから、楽ちん(のはず)でっせ。