フェイスブックは実名主義だが、日本では匿名の方が人気があるから流行らない、と聞くと私は不思議な気分になります。私は今でこそ「おかだ」という匿名ですが、そもそも育ったのはNiftyServeの実名主義のフォーラムだったものですから。実名主義の所でネットリテラシーを育ててもらって匿名OKのフォーラムにもどんどん進出しましたが、あの頃、実名だからこそのメリットって何があったかなあ。実名でもいい加減な人もいたしハンドルで凄い人もいたし。
そういえば、ネットなどでのハンドル否定派(実名主義)の人たちは、その根拠に「実名でない人間の発言は無責任でいい加減」というのを上げることが多いようです。ということは、選挙の時に選挙ポスターに「実名」ではない表記を(たとえば「有権者は漢字の読み書きができないだろう」といわんばかりに、ひらかなで名前を表記)している人の言動は、きっと無責任でいい加減なのでしょうね。
【ただいま読書中】『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』ルース・リチャードソン 著、 矢野真千子 訳、 東洋書林、2010年、3200円(税別)
ヴィクトリア時代のロンドン、ワトソン博士がシャーロック・ホームズと出会う前。ヘンリー・グレイという新進の外科医・解剖学者が、出版社から解剖学教科書執筆の依頼を受けました。これまでにない素晴らしい教科書を作り出そうと努力が始まります。グレイは、自分と同じく学生に解剖学を教えていたヘンリー・ヴァンダイク・カーターの画才に注目して、挿絵を依頼します。ただし二人の関係はぎくしゃくしていました。グレイは論文で次々賞を受けており、これからも出世街道を驀進する気満々で、カーターが注目されることを(意識的にか無意識にか)妨害したのです。それでも「これまでにない良いものを生みだしたい」点で二人は一致します。
二人は多忙な日常業務(二人とも講師、グレイは検死室や解剖学博物館の管理、カーターは医学博士号試験の準備も)の合間に、膨大な作業をこなしていきます。カーターから見たら「よい挿絵がなければ、それはよい解剖学教科書ではない」、したがって自分はグレイの共同作業者でした。ところがグレイは、共同作業は「自分がリーダー、他の人間は助手(雇用人)」と捉えていたフシがあります(実際にそれまでの論文執筆も、そのような“共同作業”で行なわれていました)。みごとなすれ違いです。特にカーターは生活が苦しかったので、ますます胸の中に貯まるものが多かったことでしょう。
さて、いよいよ文字原稿と版画が揃い印刷開始、というときになって大トラブルが発生。版画のサイズが大きすぎたのです。今だったらマウス操作でちょいと縮小、でしょうが、ツゲの版木に彫った図版はそんな扱いができません。このときの、出版社・彫り師・印刷業者などの描写はリアルです。下手すれば連鎖倒産ですから、皆必死です。そこで採られた対策は、木版画ならではのものでした。
1858年に出版された『グレイの解剖学』は、医学界に新しい風を吹かせました。最新の情報が十分にしかし簡潔にまとめられ、使いやすい大きさで、しかも美しい。さらに、外科解剖学も述べられています(つまり、この本を読んだら手術ができるようになるのです)。各種の書評は好意的で、たちまちベストセラー。しかし、グレイは「すべては自分の手柄」としようとして、出典や参考文献を明記しておらず、そこを権威ある医学雑誌「メディカル・タイムズ」の書評でけちょんけちょんにけなされます。
カーターは、ロンドンでの生活に失望し、インドに旅立ちます。ボンベイのグラント医科大学解剖学の教授として。そこで不幸な結婚(と離婚)をしますが。それは医学に集中する原動力でもありました。
グレイは1861年に天然痘で夭折しました。しかし「グレイの解剖学」は生きのびました。標準教科書となり、優れた編集者が次々と跡を継いで版を重ねます。本書の原書出版時(2008年)の最新版は2005年版。まだまだ“現役”なのです。
カーターは、インドで30年過ごし、さまざまな風土病を研究して業績をあげました。英国に帰ってなくなったのは1897年のことです。そして、最近になって、彼の名前がきちんと取り上げられるようになりました。「絵のない絵本」はありますが、「画のない解剖書」はないですよねえ。まして、医学生が学びやすいように工夫されたオリジナリティに溢れる迫力あるスケッチがたっぷり含まれた解剖書なのですから、そこで画家を不当に扱うのは学問そのものに対する冒瀆に思えます。これは、19世紀の物語ですが、もしかしたら現代でも似たことはあるのではないかな。
そういえば、ネットなどでのハンドル否定派(実名主義)の人たちは、その根拠に「実名でない人間の発言は無責任でいい加減」というのを上げることが多いようです。ということは、選挙の時に選挙ポスターに「実名」ではない表記を(たとえば「有権者は漢字の読み書きができないだろう」といわんばかりに、ひらかなで名前を表記)している人の言動は、きっと無責任でいい加減なのでしょうね。
【ただいま読書中】『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』ルース・リチャードソン 著、 矢野真千子 訳、 東洋書林、2010年、3200円(税別)
ヴィクトリア時代のロンドン、ワトソン博士がシャーロック・ホームズと出会う前。ヘンリー・グレイという新進の外科医・解剖学者が、出版社から解剖学教科書執筆の依頼を受けました。これまでにない素晴らしい教科書を作り出そうと努力が始まります。グレイは、自分と同じく学生に解剖学を教えていたヘンリー・ヴァンダイク・カーターの画才に注目して、挿絵を依頼します。ただし二人の関係はぎくしゃくしていました。グレイは論文で次々賞を受けており、これからも出世街道を驀進する気満々で、カーターが注目されることを(意識的にか無意識にか)妨害したのです。それでも「これまでにない良いものを生みだしたい」点で二人は一致します。
二人は多忙な日常業務(二人とも講師、グレイは検死室や解剖学博物館の管理、カーターは医学博士号試験の準備も)の合間に、膨大な作業をこなしていきます。カーターから見たら「よい挿絵がなければ、それはよい解剖学教科書ではない」、したがって自分はグレイの共同作業者でした。ところがグレイは、共同作業は「自分がリーダー、他の人間は助手(雇用人)」と捉えていたフシがあります(実際にそれまでの論文執筆も、そのような“共同作業”で行なわれていました)。みごとなすれ違いです。特にカーターは生活が苦しかったので、ますます胸の中に貯まるものが多かったことでしょう。
さて、いよいよ文字原稿と版画が揃い印刷開始、というときになって大トラブルが発生。版画のサイズが大きすぎたのです。今だったらマウス操作でちょいと縮小、でしょうが、ツゲの版木に彫った図版はそんな扱いができません。このときの、出版社・彫り師・印刷業者などの描写はリアルです。下手すれば連鎖倒産ですから、皆必死です。そこで採られた対策は、木版画ならではのものでした。
1858年に出版された『グレイの解剖学』は、医学界に新しい風を吹かせました。最新の情報が十分にしかし簡潔にまとめられ、使いやすい大きさで、しかも美しい。さらに、外科解剖学も述べられています(つまり、この本を読んだら手術ができるようになるのです)。各種の書評は好意的で、たちまちベストセラー。しかし、グレイは「すべては自分の手柄」としようとして、出典や参考文献を明記しておらず、そこを権威ある医学雑誌「メディカル・タイムズ」の書評でけちょんけちょんにけなされます。
カーターは、ロンドンでの生活に失望し、インドに旅立ちます。ボンベイのグラント医科大学解剖学の教授として。そこで不幸な結婚(と離婚)をしますが。それは医学に集中する原動力でもありました。
グレイは1861年に天然痘で夭折しました。しかし「グレイの解剖学」は生きのびました。標準教科書となり、優れた編集者が次々と跡を継いで版を重ねます。本書の原書出版時(2008年)の最新版は2005年版。まだまだ“現役”なのです。
カーターは、インドで30年過ごし、さまざまな風土病を研究して業績をあげました。英国に帰ってなくなったのは1897年のことです。そして、最近になって、彼の名前がきちんと取り上げられるようになりました。「絵のない絵本」はありますが、「画のない解剖書」はないですよねえ。まして、医学生が学びやすいように工夫されたオリジナリティに溢れる迫力あるスケッチがたっぷり含まれた解剖書なのですから、そこで画家を不当に扱うのは学問そのものに対する冒瀆に思えます。これは、19世紀の物語ですが、もしかしたら現代でも似たことはあるのではないかな。